平成十四年 年末の会・納めの観音説教

こだわりのない心で生きる

掛川市永江院住職 永江晴雄

 

 みなさん、こんにちは。静岡県掛川市からやってまいりました永江院住職の永江と申します。成願寺の方丈さまとは長くご縁をいただいておりまして、本日は納めの観音様のご縁日に、日頃の勉強の成果をみなさまにお話せよということで参りました。よろしくお願い申し上げます。

 すぐ隣の川根町の川根茶のほうが有名ですが、掛川もやはりお茶の産地で、風光明媚、山あり川あり、たいへん自然に恵まれたところです。

 私のようなのんびりした人間がたくさん住んでおりまして、普段はのどかな時間が過ぎておりますが、年に一度だけ町が活気づきます。それが三月から四月にかけてのお茶の時期。この時期だけは町中が殺気だつと申しましょうか。といいますのは、午前中のお茶と午後のお茶ではキロ当たりでだいぶ金額が変わるんですね。ですから町中で時間を惜しんでお茶をつんで、朝一番で農協へ持っていくわけです。そんなお茶の町から今日はやってまいりました。

 成願寺にお邪魔しますと、まずイチョウの木が目に入ります。りっぱな大木で、樹齢はわかりませんけれども、あそこまで大きくなるには、耐えがたい風雪を幾星霜重ねてきたのではないかと思います。

 このイチョウの木からとれるギンナンを毎年ちょうだいしております。ギンナンも、あの果肉部分のにおいが強くて、むいていくのがほんとうにたいへんな作業でございます。私も本山で修行時代に実を外す仕事をいたしました。先輩のお坊さんから、やれ、網の中に入れて土の中に入れるだの、たらいおけの中へ入れて棒でぐるぐるかき回すだのと、いろいろな方法を教わりましたが、私、かぶれ症なものですから、あの汁がつくとたいへんなんです。ですから、料亭などでギンナンが出てくると、「このギンナンは誰が皮をむいたのかしら」と真っ先に気になりまして、ありがたくちょうだいする次第でございます。

 このギンナンですが、イチョウの木全部になるわけではないそうですね。イチョウの木には、男の木と女の木があるわけです。女の木のほうに実がなるのですけれども、どこで見分けるかご存じでしょうか。それは、葉っぱを見るとわかるんだそうです。イチョウのあの扇型の葉っぱ、よく見てみますと、真ん中にちょっと割れ目が入っているのと、そうでないのとございます。割れ目の入っているほうはズボンで、ないほうがスカート。ですから、お庭にイチョウの木を植えて紅葉を楽しみたい、でもギンナンはいらないという方は男の木を植えればいいわけです。

 ですけれども、本来こういう方法は自然じゃないですね。自然の営みに反する行為、人間の利己的な考えだと思います。産み分けなんていうのはできませんからね。種を残すということは、この自然の中で、私たちも含めた生き物の大事な営みでございますので、そういったことを人間の勝手な考えでやるのはどうかと思います。

 たまたま実のならない木があり、その一方、実のなる木が種族を残すためにがんばってたくさんの実を残す。それが自然の姿。こういうとらわれない、こだわりのないこころをもって毎日を過ごすということが大事なのではないかと、イチョウの木を見ながら感じたわけでございます。

 ですが、このこだわりのないこころというのは、簡単そうでなかなかむずかしいんですよね。

 

 安らぎがないと、こころ乱れる

 お釈迦さまは、三十五歳で出家をされて、最初は難行苦行なさったそうです。水の中に潜って息を止めて何十分もがまんするとか、アリ塚に埋められてそのままにいるとか、三日三晩逆さにつるされるとか、そういう苦行をなさった。

 けれども、この苦行からは何も悟ることはないとお気づきになったんだそうです。ガンジス川で沐浴をして、菩提樹のもと十二月の一日から七日七晩坐禅を組まれた。そして八日目の明けの明星をご覧になってお悟りをひらき、即身仏になられたと伝えられています。

 この時にお釈迦さまは何を悟られたのでしょうか。

 私たちは悩みや苦しみをもっています。その苦しみには原因がある。その原因を追求していくと結果に行き着く。その結果がいま私たちに苦しみをもたらしているので、では最初にもどってよく考えてみる。そこにはじめて問題を解決する方法があるんだというのです。

 これを因果の法と名づけて、私たちに説いてくださったわけでございます。

 では苦しみは、私たちのなかでどのように起こるのでしょうか。不安、怒り、悩み、こういったこころを乱す状態が原因となっています。この苦しみを与えるもとを突きつめてみますと、安らぎがないからこころが乱れるのだといえます。安らぎがないのは私たちがこだわりのこころをもっているために、そこで衝突や怒りといった事柄にぶつかってしまい、安らがないのです。

 そうしますと、こだわりのこころをなくすのがいちばん大事だとお釈迦さまはお考えになられました。これを中道といいます。

 よく春と秋のお彼岸といいますけれども、この彼岸をことさら重要視するのは、一年のうちで昼間と夜の時間が同じ、中立だというところに着目しているのです。生活のなかで、こだわりのこころをもたない、中立のこころをもって生きる。そういうことを目覚めさせるために、彼岸をことさら重要に考えるようになったわけでございます。

 

 身近で救ってくださる観音さま

 皆さんはよく「般若心経」をお唱えされると思いますが、いちばん最初に「観自在菩薩」という一説が出てきますね。じつはこの観自在菩薩が人々に安らぎ、安心感をもたらすためにたいへんなお力を与えてくださっています。

 観自在菩薩と書いてありますが、これは観音菩薩さまのこと。なぜ自在菩薩かといいますと、私たちが生活するなかで、観音さまはいろんなお姿にご自身をかえることができるといわれているのです。全部で三十三種。観音経というお経のなかに、三十三種類のお姿で現れるということがちゃんと書いてあります。

 西国、坂東、秩父など各地の三十三観音めぐりのこの数は、ここからいわれるようになったのではないかと思います。

 この観音さまは、本来は如来さまになられるお方でした。けれども、自分は如来になる一歩手前でかまわない。そのかわり、悩み苦しんでいる私たちを助けるんだと、そういう誓願をされた。

 ですから、私たちが観音さまのお名前をお唱えすると、即座にその場に現れて、悩みや苦しみから救ってくださる。苦しむ私たちが必要とする姿となって、どこへでも現れてくださる。こうしたことから、自在菩薩、こう呼ばれるようになったわけでございます。

 この観音さまは、ご自身がいろんな姿に変わられると、その瞬間にその人になりきってしまわれます。おじいちゃんの姿になったらおじいちゃん、おばあちゃんの姿になったらおばあちゃんになりきってしまう。その瞬間からご自身が観音菩薩であることを忘れてしまう。人間として同じように生活するわけですので、誰が観音さまなのかわからない。いまこうしてお話ししている私が観音さまかもしれませんし、みなさまお一人お一人が観音さまかもしれないわけです。

 ではどうしたら観音さまが私たちの前に現れてくださるのでしょうか。それには観音さまだと信じて一生懸命帰依するこころが大事。この人は観音さまなんだと信じて念ずると、必ず功徳をさずけてくださる。仏教に信心した方がいらっしゃって、その人に一生懸命帰依し信心すると、その方が観音さまとなって私たちにいろんなことを教え、導いてくださる。そこにはじめて観音さまの力が現れる。

 ですから、私たちのほうで壁をつくってはいけないわけです。この人はいいんだ、この人はだめなんだというようなことを思ってはいけませんね。なかなかむずかしいことかもしれませんが、じつはこれがいちばん大事なことではないかと思うわけでございます。

 

 慈悲の気持ちを持つことから

 また「般若心経」のなかで、「空」という字がいくつか出てきます。この「空」は、私たちのこころの状態を指しています。「空」からさき、良くもなれるし、悪くもなれる。

 私たちは幸い、信心をしていることから、毎日の生活のなかで自分の罪を悔い改めるような気持ちを持ったり、あちこちの霊場を巡り、家族や親類がみな元気で暮らせるようにお詣りをしたりします。

 中道ということを守って、こだわりのないこころで毎日を暮らしていくと、怒りや衝突がなくなり、こころのなかに安らぎが増えていく。落ちついて安心感が増えて、この安心感がゆるぎないものの状態になったときにはじめて毎日を「極楽」という生活のなかで暮らせるのです。

 ですけれども、私たちはそれぞれ一人になってしまうと、人間というのは弱い生き物ですから、ほんとにちょっとしたことであっちの道にそれてしまったり、こっちの道にそれてしまったりするわけです。そうならないように「般若心経」の最後に、「掲帝掲帝…」と呪文があります。これは、みんなで手をとりあって極楽、彼岸といいますけれども、彼岸の世界で仲良く暮らしましょう。それがこの「掲帝掲帝…」という呪文になるんだそうです。

 みなさんそれぞれ手をとりあって、遅れる人がいましたら手をさしのべ、あるいは後ろから押して、脱落しないように励ます。これがいちばん大事なこころ。慈悲とか慈愛と仏教では呼びますけれども、この慈悲のこころがあってはじめてやさしく人に接することができるのではないかと思うのです。

 

 大きく流れる時の中で

 もう四、五年前になりますが、ご縁がありましてインドへ行ったことがございます。

 最初に行ったところで電車が四時間も遅れたんです。四時間。日本のように何時何分に電車はホームに入って来るもんだというこだわりをもっていましたから、三十分遅れた時点でいらいらが爆発しそうでした。「この国は、いいかげんの塊みたいな国だ」というふうに思ったんです。

 四時間待っているあいだ、駅のホームにはほとんど人がいないんです。いるのは日本人とか中国人とかの旅行者だけ。四時間ぐらいして、日が暮れて辺りが暗くなってきた。そうしましたらホームで放送がありました。インド語ですからなにがなんだかわからないけれども、とにかくガイドさんが「電車が来る」というものですから、「そうなんだ」と。そうしましたら、あっちこっちからわんさかインド人が駅に出てくるんです。五分もしないうちに、向こうまで見渡せたような広々した駅が、人でごったがえしてしまって身動きとれないくらいの状態になったんです。

 そこで私は思ったわけです。電車というのは時間が来れば来るんだ。何時何分に来るんじゃないんだ。ここのところが大事だと思ったわけです。

 インドの人たちは、放送があったら来ればいいというふうに考えているから、駅で待たないんですね。それまでは自分の仕事をしている。ここではじめて、インドというのは大きな時間のなかで、大らかなこころをもって人々が生きているんだな、と実感しました。

 インドに五日間いましたけれども、時間をあまり気にせずに、自然と一緒に生きているインド人のみなさんは、ほんとにすばらしいなと思いました。こういうお国柄だから、お釈迦さまが生まれ、仏教が栄えたんだなと肌で感じたわけでございます。

 坐禅をしてみましても、すぐに何時に終わるだろう、なんて考えてしまいます。ですが坐禅するあいだの時間が問題ではなくて、坐禅をしている姿そのものが大事なんだということに最近気がつくようになったわけでございます。

 みなさま方も、ご自分のご家族にたいしても仏さまと同様な気持ちで相対して拝んでいただければ、ご婦人の方はお父さんが、お父さんは奥さまがすべて観音さまになられると思います。

 こころのなかのこだわりの壁をなるべくなくす、低くする。そしてその向こうにある観音さまのおすがたを毎日の生活のなかで見る。そういう生き方が私たちがいまいちばん求められている生き方ではないかと思うわけでございます。

 本日はご縁を頂戴いたしましてありがとうございました。

合掌