平成17 納めの観音・年末の会説教

  変化自在の観音さま

真言宗豊山派 寿徳寺住職 新井慧誉

 

 

  近藤勇を通じたご縁

 みなさま、こんにちは。ご紹介賜りました北区滝野川の寿徳寺の新井慧誉と申します。宗派の総本山は奈良県の長谷寺で、東京では護国寺ですとか西新井大師、この近くの宝仙寺さんもお仲間であります。

 きょうは1218日、年内最後の観音さまのご縁日です。一年無事に過ごせたことへの感謝と、一年を振り返る反省の日、「納めの観音」でございます。みなさんは観音さまへの信仰が篤い方ばかりだとうかがっておりますが、私どものお寺もご本尊さまが観音さまです。「谷津の子育観音」とよばれ、古くから大勢の方々に拝まれてきました。また同時に、境内のイチョウの木がたいへん人気がございました。なぜかと申しますと、その大きなイチョウの皮をちょっと削って、母乳の出ないお母さんがご飯に炊きこんで食べますと、母乳が出るようになるという信仰がありまして、たくさんのお母さん方が観音さまとイチョウのご利益をいただいてきました。

 ところで、私どものお寺は、新選組の局長近藤勇にゆかりがございます。JRの板橋駅東口前に近藤勇のお墓がありますが、そのお墓から200メートル弱のところの旧中山道沿いに一里塚がございました。江戸の日本橋から二つ目の一里塚で、その一里塚付近に臨時に設けられました刑場で、慶応41868)年425日、勇は首を斬られて亡くなりました。首は京都で晒すために持って行かれましたが、すぐ近くの私どものお寺の境外墓地が無縁仏さまをおさめるところでしたので、胴体はその無縁塚に埋められました。

 埋められてから三日後、遺族の方々がそこから掘り起こし、遺体を三鷹のほうへ持っていったという伝説があります。運ぶ途中、こちらの成願寺さまに立ち寄ったとも伝えられています。真偽をめぐって論争がありますが、ともかくそんなご縁から、成願寺さまと私どもは、近藤勇を通じてご縁があるんです。約138年ばかり昔の話でございます。

 

  観音さまの霊場巡り

 観音さまへのご信仰は、昔から今日にいたるまで、大勢の方々にしみこんでおります。成願寺さまも毎月ご縁日の18日に、曜日にかかわらずお詣りの会があるとお聞きしました。すばらしいことです。

 きょうはその観音さまについてのお話をということでありますが、昔からよく「朝観音に夕薬師」といわれ、朝は観音さまにお詣りをし、夕方は薬師さまにお詣りするというように、そのくらい観音さまは人気がある菩薩さまなのです。そしてその地域の主だった観音さまの霊場を線でつないで、各種の巡礼コースができております。そのはしりは関西の西国三十三カ所霊場巡りであります。

 みなさん方は毎年、観音さまの霊場巡礼の旅行をされているとうかがいましたので、お詣りされたことがあるかと思いますが、私どもの総本山の長谷寺は西国第八番札所になっております。

 西国三十三カ所霊場ができたのは奈良時代の初めだといわれています。その後、平安時代の半ばに花山法皇が復興され、今日のコースができたようです。そして藤原氏から院政時代、源氏と平家の争いなどがありまして、政治の中心が関東に移りますと、関東でも三十三観音霊場が求められるようになりました。そうしてできたのが、坂東の霊場巡りというわけです。

 もうひとつ、秩父にも巡礼コースが設けられまして、もともとは三十三だったのだそうですが、時の流れとともに三十四の札所となりました。西国、坂東、秩父の霊場を合わせまして、「日本百観音巡り」となって、今日までみなさんにお詣りいただいているんですね。

 坂東の三十三カ所は鎌倉からスタートしまして、東京には霊場が一つしかありません。浅草の観音さまです。鎌倉には札所が四ヵ所かたまってありますが、鎌倉幕府ができて、そこをまず重視したという名残りかと思います。

 また、この百の霊場のほかにも、全国にはたくさんの三十三観音巡りがございます。いまと違いまして、昔は西国や坂東や秩父に出かけるのがなかなか難しかったのです。そんなことから、地元にも観音さまの巡礼コースをという庶民の願いで、あちこちにできたのではないかと思います。

 

  菩薩と如来

 観音さまにはいろいろ種類があります。でも、いろんな観音さまがいらっしゃるなかで、中心になるのは聖観音さまでして、正観音ともいいます。聖観音さまは、手が二本あって右手を胸のあたりにして、左手に蓮のつぼみをお持ちです。このお姿が一般的かと思います。

 なぜつぼみなのかと申しますと、観音さまは菩薩さまだからです。観音仏とか観音如来とはいいませんね。何々仏とか何々如来といった場合は、お悟りをひらかれた、解脱をされた「ほとけさま」のことです。ですから、こちらのご本堂のお釈迦さまは釈迦如来、もしくは釈迦仏であって、釈迦菩薩とはいいません。

 菩薩というのは、悟りをひらくためにいま修行をされている方のことをいいます。観音菩薩以外にも、地蔵菩薩、弥勒菩薩、日光菩薩、月光菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩と、たくさんいらっしゃるわけです。修行中であることを、まだ花が開いていない蓮で表現しているんです。こんど観音さまにお詣りされましたら、ちょっと手元を注意してご覧いただいたらと思います。

 さきほど申しました観音霊場巡りは、三十三のお寺さまを線でつないでいるわけですが、なぜ三十三なのかご存じでしょうか。観音さまはわたしたちの前にお姿を現すとき、三十三に身を変えるというのです。お姿を変化するというので、変化観音といいます。観音さまは相手によって化けるのです。『観音経』にも、ある時はお坊さんの姿に、ある時は子どもの姿に、またある時は侍の姿になって現れると書かれています。

 

  観音さまの特殊な能力

 また観音さまには、別な数え方もございます。六観音がそれです。六種類の観音さまのことです。いま申しました聖観音がまず第一で、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音の六種類です。聖観音さまがオーソドックスな観音さまでして、だれもがなじんでいるお方であります。

 千手観音さまは手が千本あります。観音さまは、人を選ばずいろんなところへ常に救いの手をさしのべていらっしゃいます。ですから二本では足りないわけです。実際には三十三の手で表すことが多いのですが、西国第五番札所の藤井寺(葛井寺)には文字どおり、千本手のあるご本尊さまがお祀りされています。あらゆる方面に手をさしのべられているということを、千の数で表しているんです。

 馬頭観音さまはこわい顔をしていらっしゃいます。『馬頭観音経』を読んでみますと、観音さまは、あらゆる迷いのもとになっている煩悩を、みんなつまみ出して飲みこんじゃってくれるというのです。ちょうどそれは、馬がひと仕事終えて水を飲むとき、がぶがぶとすごい勢いで飲みますが、それと同じ勢いで、馬頭観音さまはわれわれの煩悩を全部飲みこんでくださるんです。そういうことから、馬頭観音という名前がつけられたわけです。

 十一面観音さまは、お顔が十一あります。正面の本来の顔に加えて、頭の周りに十個のお顔が描かれています。本来のお顔は数に入れず、頭に十一のお顔がある場合もありまして、ふたとおりのお姿がみられます。いずれにしましても、あらゆる方向、全方向に救いのまなざしを向けていらっしゃるんです。

 ちなみに、お経の中には十方という言葉がよく出てまいります。十の方向ということです。東西南北を四方といいます。その東西南北のあいだに東北とか東南とかがありますが、それを四維といいます。ですから、四方四維で八つの方角ですね。でもこれだと平面だけですよね。方向には上方も下方もありますから、四方四維上下で十方となるわけです。十一面観音さまは、十方にお顔が常に向いていて、正面のお顔を合わせて十一なのです。私はこのお姿が本来のものではないかなと思っております。

 それから准胝観音さまは、三つの目をお持ちです。ちょうどひたいの真ん中に第三の目があります。これは観音さまの徳を表している目なんです。普通われわれは二つの目でものを見ています。准胝観音さまは第三の目で、われわれには見えないところまでご覧になっているのです。いまわたしたちが見ているのは、障子とか天井とか畳とかですが、それらの向こう側はさえぎられて見えません。ところが准胝観音さまには見えているんです。それからこの観音さまは、腕が十八本お持ちであることも特徴です。

 ところで天台宗の場合は、六観音のなかに、准胝観音ではなく不空羂索観音さまを入れております。「不空」というのはむなしくない、という意味です。しっかりしているということでしょうか。「羂索」はひものことです。お不動さまも同じ「羂索」を持たれていますが、ひもを用いて悪いこころをぐっと縛りつけて逃がさないんです。悪いこころとは、つまりは煩悩であります。

 それから第六番目は如意輪観音さまです。この観音さまは、こころの思うがままに物事がすべてかなえられる、そういうお力をお持ちになっておられる観音さまです。

 こうしたさまざまな功徳を持つ聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音の六観音さまへの信仰が、全国にいきわたっているんですね。

 

  観音さまの「観る」ちから

 観音さまは男性か女性かと、よく聞かれます。みなさまはどちらだとお思いですか。実は男性でも女性でもないんです。確かに優しい柔和なお顔で、ふっくらと描かれ彫刻されていますので、一見すると女性っぽく見えますが、でも乳房がふくらんでいるわけではないでしょ。女性であってほしいと思う人には女性に、男性であってほしいと思う人には男性に見える、そういう不思議な方なんです。

 それから観音さまは、正式には観世音とお呼びします。世の中の音を観ずる、観察するという意味です。生きている人は動きます。ところで、動くと音がします。そのちょっとした音でも聞き取って、その人がいま何をやっているか、何を悩んでいるかをいつも観察されているんです。

 また、観音さまのお経には『観音経』や『般若心経』がございます。『般若心経』も観音さまのお経なんです。それが証拠に、冒頭に「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」とあります。この場合観音さまは、「観世音」ではなくて「観自在」と出てきます。観察することが自由自在だという意味です。ちょっといい回しが違いますが、観世音も観自在も同じことです。

 着目していただきたいのは、「観」という字です。「みる」という字ですが、「見」ではなくて「観」であります。「見」というのは、ただ単に見るだけという意味です。表面を見るだけです。それに対して「観」というのは、その表面の裏側といいますか奥にある本質を、じいっと観察して把握するという意味です。

 ここのところ急に世間を賑わしている姉歯建築士さんも、もともとから悪い人ではないのでしょうが、目の前の欲にとらわれちゃったのでしょう。はた目からは、じつにまじめにせわしなく仕事をして、よくやる設計士さんだと思われていたかと思いますが、それは「見」の段階であって、単純に表面的な見方なんでしょうね。

 ところがご本人はこころのなかで、ずいぶん悩んでいたみたいですね。後ろめたさがあったようです。一級建築士という誇りがあるのに、自分自身を裏切っていたわけですから、さぞかしつらかったかと思います。そこのところを見通してくれる観音さまが、あの人には現れてこなかった、観音さまとのご縁をいただけずにきたってわけでしょうね。

 みなさんは観音さまと深くご縁がありますから、善男善女ばかりでいらっしゃいます。冒頭で申しましたが、今日はこの一年の無事を感謝するとともに、振り返って反省する日でもございます。観音さまに素直な気持ちでお詣りされますと、観音さまはやさしく観ていてくださいます。観音さまに恥ずかしくなく、新しい年をお迎えいただく心の準備をするのが、今日の納めの観音でございます。

 12月も半ばを過ぎまして、町中でクリスマスの飾りつけが見られます。ところでわたしども仏教徒にとりましても、12月はとても重要な月なんです。なぜかっていうと、仏教の誕生月だからです。お釈迦さまは、悩みに悩み、苦しみに苦しんでいた一介の行者さんでした。しかし、35歳の128日、大きな菩提樹の下で明けの明星を東の空に仰ぎながら、はっと気づくものがありました。お悟りをひらかれたのです。お釈迦さまが仏さまになられたんであります。

 みなさんも、ひとつ12月は仏教が生まれた月だということを、ありがたく受けとめていただければと思います。ご静聴ありがとうございました。  合掌