平成14年 秋の観音詣りのお話

仏教をよりどころに生きる 

大本山總持寺監院・静岡県可睡斎斎主 伊東盛熈

 縁によっていまある自分

 本日はご本山にお詣りくださいまして、誠にありがとうございます。じつは私、静岡県袋井市の可睡斎の住職でございます。可睡斎には火祭りの行事がありますが、その際、成願寺の若方丈さんに、お手伝いにおいでいただいて、毎年ひじょうに助かっております。

 人間の縁というのは不思議なものですね。お釈迦さまも「縁」ということをとても大切に説かれています。「諸法因縁」と申しまして、すべてのものは因縁によって生じている。考えてみますと、私がみなさまと本日お会いするというご縁、これも成願寺というお寺のお蔭さまでお会いすることができました。若方丈さんにも、「いやぁ、お久しゅう」と、こう親しく声をおかけすることができる。

 人間というのは、いつ何時ありがたいご縁に結ばれたり、またはとんでもない縁に結ばれたりして、用が済むまで苦しむなんてことが起こるかもしれません。それを考えてみますと、人間は、自分一人でこんにちまで生きてきたわけではないということがわかってまいります。

 眼閉じ静かに思うきょうまでのおのれの命。

 目をつぶって思い起こしてみますと、私は昭和五年生まれ、午年の七十二歳です。七十二年前、母からこの世に生まれ出て、母が抱き寄せ乳房をふくませてくれなかったならば、と思いますときに、そこにまず尊くありがたい縁ということがある。

 最近は、新聞などを見ますと、ひじょうにむごい、怖いことがたくさん載っております。同じおの字でも、親なのか、鬼なのか。自分の子を命落とすほどに打ちのめしたり、または捨てたりということもあるわけです。

 学校に上がりますと、先生、友達に支えられ、社会に出れば、先輩方から手取り足取り教えてもらって、ようやく一人前に生活できるようになった。ところがそうわかっていながら、仕事が成功したり、裕福になったりしますと、自分の腕がいいから、自分の力だけで成功したんだと思い込んでしまわれる方が多い。

 では今度は仕事に失敗して、さあお金の工面をしなければならないとなりますと、頼りにするのはまず身内。だいたいは兄弟から頼みにいきます。

 するとお兄さんは、「そうか。じゃあなんとか都合してみよう」といって方々に手を回す。けれども、そうはいいましてもなかなか工面できるものではございません。数日たって、「どうしてもできなかった。悪いなあ」と。これを聞いた弟がどう考えるか、「兄貴は手を尽くしてくれているようだったが、きっと兄嫁が反対したんだ」と、自分がもともと悪いことを棚に上げて、人を逆恨みしてしまう。

 

 仏の教えをよりどころに安心して生きる

 お釈迦さまは、昔のインドで王子として生まれ、お育ちになりました。お釈迦さまご自身そういう尊いお生まれなのですが、「人は生まれながらにして聖なるにあらず。また、生まれながらにして賤なるにあらず。聖なるも賤しきになるも、その人の行為によるなり」と示してくださっています。

 行為とは、生活態度すべて。その人の生活態度によって、立派となるか、つまはじきにされるような人になるかが決まってくるというのです。たとえ王家や大臣の家に生まれたからといって、それが偉いということではない。二間四尺の裏長屋育ちであっても、いかなる貧乏であっても、その人の生活態度いかんで、すばらしい人生になるかが決まるということなのですね。

 ではその生活態度とは何かと申しますと、私たちは仏教信者ですね。仏さまの教えを習う者です。仏さまの教えとは何かといいますと、仏になる教え、つまり成仏することをいいます。ところが私たち日本人にとって、「成仏」もしくは「仏さま」ということばは、二つの意味合いがあります。

 お釈迦さま、観音さま、ご本尊さまを仏さまといいます。もう一つ、お亡くなりになったお方を仏さまという。だから、ご先祖さまのお位牌を見ても仏さまといいます。

 そしてもう一つの意味合いは、「覚る」です。何を覚るのか。何に目覚めるのか。これは、まず私たちは、この世に生まれ出させていただいて、いま何なのかということに目覚めよというのです。これを目覚めの仏法といいます。

 では仏法というのは何か。これは、決まり事のこと。十六条の禁戒ですとか、十重禁戒というような決まりがあります。そういう決まり事を生活の目安、よりどころとして生きなさいというのが、仏さまの教えなのです。

 私たち人間というのはひじょうに弱い。どんなに強がっている人でも、人間には弱さがあります。また、弱さがなければ人間ではないと思いますね。ですからよりどころが必要なのだと思います。なにかに迷ったり、耐え難いような悲しみをおったとき、仏さまの教えがよりどころであり、菩提寺さま、つまりご先祖さまが眠っておられるお寺がよりどころなのです。お寺にお詣りをして、こころがすーっと落ちついてきます。

 よくふすま絵や掛軸などに、牡丹に獅子。もしくは竹に虎が描かれています。この組み合わせは何かといいますと、百獣の王といわれる獅子には、毛虫が多いんだそうです。ですから、ごしごし、ごしごしと岩に体をこすったりして毛虫を落とそうとします。ですが、なかなかうまくいかない。ところが、牡丹には殺虫成分がふくまれているんだそうです。それで獅子にとって牡丹の花は、最高のよりどころなんだそうです。

 次に、竹に虎は何かといいますと、虎にとって一番恐ろしいのはゾウなんだそうです。ですけどゾウは竹林に入りますと、キバがかかって歩きにくい。ですからゾウはあまり竹林に寄りたがらないんだそうです。そうしますと、虎は安心して竹林の中で寝ていられますから、竹に虎が描かれているのですね。

 人間もそうなのです。どんなに強い人でも弱いところがある。ですけど、こころから安心してゆっくりとくつろげるよりどころ。それが仏の教えであり、ご先祖さまのおられる菩提寺さまなのです。

 

 ありがたい親との縁

 自分のことを言って恐縮ですが、私の母親は、一八九四年、明治二十七年生まれの百八歳。お蔭さまでまだこの世におってくれます。そしていまだ自分で歩いてくれます。百四歳くらいまでは新聞を見ておりましたが、いまは目も見えず耳も聞こえなくなってしまいました。

 私の兄嫁が腰を患って手術をしまして、三か月間の入院生活をしました。お寺に戻ってきました時に、兄嫁にとっては姑にあたる私の母親はこたつに入っておりましたが、「ただいま」の声が聞こえますと、「はぁー、よかったのう」とひじょうに喜びました。ですが兄嫁はいくら退院したからといっても十分ではありません。八十歳ですからね。嫁といっても八十ですよ。それでも姑と二十八歳違います。

「あいたたたっ」といってようやく腰をおろした瞬間に、母が小物入れから薬を出しまして、「お水」と、こう。嫁に水をくんできてくれという。それで兄嫁はあわてて水をくんできました。その光景をそばで見ておりましたから、息子の私としましては、「姉さん、すまんねえ」と声を掛けまして、ついつい何気なく、「姉さん、もうぼちぼちよかろうでねえ」と、兄嫁に手数を掛ける母のことを、こう申してしまったのです。

 百八歳になる人のことを「ぼちぼちよかろうでねえ」というのは、あの世に行ってもよかろうでねえということに通じます。人間というのは妙なものです。最近はほとんど耳の遠くなった母が、ぱっと顔をあげて「わたしゃまだ死ぬことなか」といいました。方言で、死にたくないということですよね。

 そう言うのには理由が二つありまして、一つは、私の父親のことですが、「うちの方丈さんは、若いときからこれが好きだった。私がいま行けば家庭争議が起きる。行きたくても行かれません」。百八歳でもそのくらいのジョークを飛ばす元気がなければ長生きしませんね。

 それからもう一つ。「あなたのことが、心配で心配で死なれません」といった。

 自分は百八歳でいつ死んでもおかしくない。そういう自分の体でも、息子のことが心配で死なれんというのです。私の母に限らず、みなさまのご両親も同じです。自分のことはさておいて、ほんとうに子どものことだけが気がかりで、それで生きていてくださる。

 そういう子を思う親ごころを気づかないで、「ぼちぼちよかろうでねえ」ということばをはくわが身のあさましさに、ほんとうに反省をいたしました。このように、私たちは気づかないうちに相手を傷つけ、悲しませているんじゃなかろうかと思います。

 きょうは、みなさま方のよりどころでありますお寺のご本山で、この後、お名前を読み上げながら身体健全のご祈祷をさせていただきます。そしてますます元気になっていただきましたら、ひざをまじえてお昼食をいただきながら、お話などをしたいと思う次第です。

 また、ぜひお出かけをいただきまして、お目にかかるご縁を頂戴するのをたのしみにしております。ありがとうございました。          合掌