平成18  春の観音詣り説教

  観音様に生かされて生きる

埼玉県秩父市四萬部寺(しまぶじ)東堂(とうどう)  丹羽信孝

 本日はお詣りいただきましてありがとうございます。少しお時間をいただき、お話を申し上げたいと思います。私は当年とって81歳、大正14年生まれでございます。大正14年生まれまで、兵役の義務がございました。私は当時学生で、二年生の時に兵隊検査を受けまして、第三乙種合格。乙でも合格だったんですね。丙は合格しませんが、甲種合格、第一乙、第二乙とありまして第三乙種合格。

 飛行兵でございます。その飛行兵と書いてある隣に、「イ要員」とある。私の父親が、これは何だろうと、当時は兵事係がどこの役場にもありましたから聞いて回った。ですけど、誰も意味がわからない。わかるはずはないんですね。暗号でございます。けれども、飛行兵で特殊な任務だということは、特攻隊要員だなとぴんときました。

 満州という地名、今の若い方は聞き慣れないことと思いますけれども、原隊が満州のチチハル(斉々哈爾)でございました。ノンコウ(嫩江)という川が流れ、その川の向こうはソ連。そこで最初は、飛行兵であろうと輜重兵であろうと、陸軍の訓練を受けるわけです。これを終えると、今度は特攻兵としての技術を身につけるために、ハルピン(哈爾浜)に向かいました。それが、ハルピンに移動したその日、たった一日違いでソ連が突如戦争宣言、来襲。チチハルの原隊が全滅。その翌日に終戦。私はハルピンで玉音放送を聞いたのです。

 一日違えば戦死です。また時期が違えば、特攻訓練を受けて、鹿児島の知覧特攻基地へ行っていたはず。おそらく沖縄あたりへ突っ込んでいたと思います。

 終戦後、ピョンヤン(平壌)へ至った時に武装解除となりました。が、私は上官から残るようにと言われました。解散した兵隊ももちろんいまして、これも運命の分かれ道でした。ピョンヤンから列車に乗りますと、次の駅で婦女子を乗せたんです。その警備として、私たちは各貨車に5人ぐらいずつ分乗しました。

 列車はフザン(釜山)へ辿り着き、最後の輸送船に乗りこむことができた。これも婦女子を乗せる輸送船で、やはり警備として乗り込んだわけです。船内は着の身着のまま、誰もがお腹をすかして子どもたちはみな泣いています。それは悲惨な船旅でしたが、なんとか山口県の漁師町へと着き、一か月ぶりにお風呂に入れていただきました。こうして巡り合わせ良く、日本の地を再び踏むことができた。何か目に見えない大きなものに生かされていると感じながらの戦争でした。

 山口から、この懐かしい秩父に帰ってくることができた。生きて再び「ただいま」と言うことができた。そうしましたら、本堂から太鼓の音、鐘の音、父の読経の声が聞こえてくる。父は観音様の大きな大きな力に感謝をして、お詣りをしてくれていました。私はこのお寺の観音さまのお力で生かされている自分を実感したわけでございます。これが私の20歳の記憶です。

 当年とって81歳。お話ももうなかなかできません。これが最後になるかもしれません。でもみなさんも、目には見えない大きななにかに生かされていることを自覚されて、どうぞ感謝の気持ちで長生きしてください。本日はご苦労さまでございました。  合掌