平成十九年 盂蘭盆会 説教

 

『いのちの世界』

函館市 龍寳寺住職・国際仏教学大学院大学学長  木村 清孝

 

 みなさま、こんにちは。私は函館の龍寳寺というお寺の住職をしております。住職になりましてまだ五年ほど。その前は、仏教の勉強をずっとさせていただきまして、東京大学で二十年ほど教えておりました。現在は大学院だけの小さな仏教大学におりまして、二足のわらじと申しますか、ほかにも学会関係のお世話をしたり、三足か四足のわらじをはいて、あちこち飛び回っている状況でございます。

 きょうは「いのちの世界」という題を掲げさせていただきました。いのちのありようを深く極め、それをみなさんに説く。これは、仏教の活動の中心だといってもいいかと思います。そんなことで、少し荷が重い気もいたしますが、いま私が考えておりますこと、思っておりますところをみなさまにお聞きいただければと存じます。

 

 つながり、支え合ういのちの力

 私たちのいのちは、けっしてこの世だけのものではありません。はるかな過去からのいのちの力がこの世において実を結び、みなさまお一人お一人のこころとからだをつくっています。

 この世を去りますときも、それで終わるわけではありません。またその力が、仏教ではカルマと申しますけれども、一種のエネルギーとなって新しいいのちをつくっていきます。

 この地球上にいのちが誕生したのは約四十億年前といわれています。そこからはじまって、いろんな生物となった。

 私たちの直接の祖先にあたる人類をホモ・サピエンスと呼んでいますが、これが誕生しますのは、約二十万年前といわれています。四十億年前のいのちから想像もできないような長い時間をさまざまに進化して連綿とつながり、ようやく現代人、ヒトという存在が生まれたということです。これだけ考えましても、その長い時間をいのちが途切れることなくつながってこれた、奇跡にも思えます。いかに一人ひとりのいのちが重いものかがおわかりいただけると思います。

 そしてもう一つ、いのちを考えますときに、自分の家族、親族を考えるわけですが、このつながりもたいへん大きな広がりをもっています。

 みなさまお一人お一人にご両親がいらっしゃる。そのご両親にもまたご両親がいらっしゃる。その両親、その両親と単純に計算いたしますと、十代さかのぼりますと千人のお父さん、お母さんがいらっしゃる。二十代さかのぼりますと約二百万人ものお父さん、お母さんがいらっしゃることになります。

 私どもは曹洞宗でございますけれども、こうした親と子、子と孫という血のつながりの大きさをとくに強調されたのは、浄土真宗を開かれた親鸞聖人です。浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と念仏をお唱えすることが基本の行になるわけですが、親鸞聖人は、「父母のために念仏を唱えるということはない。なぜかと言えば、すべての生きとし生けるものが父であり、母である」と、こういうことをおっしゃっておられます。それほど深い大きないのちのつながりのなかで、いまの私たちがいるということなのです。

 そして、さらにまた大事なことは、私どもがここにこうしていられるのは、自分一人の力ではございません。現実に生きていくなかで、いろんな方の力、さまざまな存在の支えがあってはじめて、このように生きていることができます。

 仏教では、これを「縁起」ということばで表現しますが、人同士だけではありませんね。いろんな生き物、一木一草に至る自然まで、さまざまなものに支えられているわけです。こうした縁起のあり方を「重々無尽の縁起」といいますが、重なり合い重なり合って、どこまでも尽きることがない。その尽きることのないかかわりあいのなかで、私たちはこうしていられるということなのです。

 

 人の一生の儚さ

 ではいのちとは、どこにあるのでしょう。からだのどこかにいのちというものがあって、ここだよと指し示せるわけではないですね。私たちが、生きてここにあるというその事実を可能にしているものを、仮にいのちと呼んでいるわけで、私たちが生活をし、活動できることこそが、じつはいのちの正体。それは、無常のなかにあります。仏教では、諸行無常を説いています。ありとあらゆる物事は常に生滅、つまり、生まれ、消えていく流れの中にあるというのです。

 古くから人寿百歳と申します。長生きをしても、人間の寿命は百年だというのです。おそらくこれは、先祖たちの長寿の願いの現われでもあったと思います。しかし近年の研究では、人間はほぼ百二十歳まで生きられるのだそうです。みなさまのなかから百二十歳までお元気でおられる方がぜひ出てほしいと思いますが、しかし現実は、世界で最も長寿の国といわれる日本でも、男性が七十九歳くらい、女性が八十六歳くらい。

 地球上に生命が生まれてからの長いいのちの歴史を考えますと、私たちの一生は本当に儚い。ほんの一瞬です。その一瞬の人生を、いかに輝かせることができるか、これが私たちにとって最も大事なことであろうと思うのです。

 

 生活すべてが修行

 これから法要で読まれます『修証義』に、こう説かれています。しっかりと生死、生まれ、死ぬというその意味を明らかにすることが、私たち仏教徒にとってもっとも大切なことですよ、と。生まれ死ぬという現実のなかで、仏さまを信じて仏さまとともに生きていく。そのありようを自らのものとして、はじめて本当のいのちの輝きが実現するのです。生まれ死ぬということを、いたずらに怖がったり、苦しむことはないのです。

 道元禅師は別のお説法のなかで、「生死は仏の御命なり」と説かれています。生まれて死んでいく、そのいのちの全体が、仏のいのちそのもの。仏さまを信じ、ともに生きる生活を心がけていようといまいと、じつは生まれながらに仏のいのちをみなさまお一人お一人が受け継いでいらっしゃる。

 でも多くの人は、そのことに気付かずに、いのちを輝かすことができずにいます。ですから、修行ということが必要なわけですが、じつは、毎日の生活行動の中に修行があるのです。

 道元禅師が大事にされました『華厳経』の浄行品という一章に、こういうことが説かれています。

 たとえば顔を洗う。歩く。仕事をする。食べる。そうした普段の生活を、願いをもって行なう。どんな願いか。それは、私だけのことではなく、みんなの幸せを願う、みんなが安らぎをえるようにと、そう願って生活をする。その生活が、仏さまとともに生きるということなのです。

 願いを持ってなされるお仕事であれば、そこにいのちの輝きが現れます。みんなが人のために、他のためにという願いがもてたなら、平和な世界が実現されてくるのではないかと思うのです。

 

 実践すべき四つの徳目

 修行ということをもう少し具体的に申しますと、たとえば心がける徳目として、四つのことが挙げられます。一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事です。布施といいますと、お坊さんにさしあげるもの、あるいはお寺に差し出すものをお考えかと思います。しかし、布施というのは布き施すと書きますが、自分が人にしてさしあげることは、みな布施なのです。

 お金がなければ、物がなければできないのか。そんなことはありません。布施には三つあるといわれていまして、一つは財施。これはみなさんよくおわかりのお金とか物とか食べ物とか、実際の生活を支える金銭や物資の施しです。

 その次は法施といいますが、法は教えのことです。正しい教えを伝える。あるいは悩み苦しんでいる人の相談にのってさしあげる。これも立派な布施です。

 さらにもう一つは無畏施といいます。おそれのこころを取り除くお布施です。たとえば、本当に悩み苦しんでいる人が、すばらしい人と出会い、その人の一言、二言を聞くことによって安らぐといった場合です。はやりのことばで申しますと癒しです。

 次の愛語は、愛があふれることば、優しいことば、慈しみの思いがこもったことばをかけてさしあげるということ。道元禅師は愛語をご説明されるなかで、「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」とおっしゃっておられます。慈しみのことば、愛のことばは、直接かけられるときももちろんうれしいものですが、見えないところでの愛のことばは、本当の意味でこころを打つ、たいへんうれしいことになるわけです。愛あればこそ、時には厳しいことばになることもあると思うのですが、それは廻天の力、世の中を変えていくほどの力になるのです。

 第三の利行。自分以外の人のために、他人の利益のために働く。これが利行です。私どもは、なかなか自分を差し置いてまで人のためにしてさしあげることができません。それは自分の利益にならないと思いがちですが、そんなことはない。人のためにすることが必ず自分のためになるのです。なぜなら、私と他人の境目はないからです。

 よく我を捨てなさいということがいわれます。我利我利亡者といいますが、我利というのは我が利のこと。私の利益だけを考えることです。そうではないですね。人のためにすることが、私のためになる。そのような心がけがたいへん大事なのです。

 最後の同事。これは、基本的にはみんな一つなんだということです。私がいつ何を、どのようにしようと、それはみんな同じ場のなかで成立しているということ。いまこの世界とつながっているということです。

 布施、愛語、利行、同事というこの菩薩の行ないはすべて、人のため、また生きとし生けるもののためです。それがまた己のためでもあります。

 現在、環境問題が世界規模で問題になっております。考えてみますと、環境があってはじめて人が存在し、生きていられるわけです。私たちは自然の恩恵がなければ生きてはいかれないのです。自然に対して、感謝の思いがなければ、いのちのくさりは途切れてしまいます。

 きょうは、このようにありがたいご法要にみなさまお元気でご出席になっておられます。ここへお詣りをいただいているということは、自分の思いだけではない。いろんな条件が整ってはじめてできる。さきほど申しました重々無尽の縁起の力です。

 こうした大きな世界のなかで、私たちのいのちがあるということをぜひこころに刻んで、ご法要をご一緒におつとめいただきたいと思います。そうしてお帰りをいただきますと、きっと明日からの生活がもっと楽しい、もっと安らかな、ありがたいものになっていくのではないかと存じます。

                                  合 掌