【連載・第2回】

 一人では生きられない、人の一生

百武正義

 

 佐藤泰舜老師の行者を務めて

 両本山も地方の専門僧堂も、多くの大衆で成り立っています。そこは、指導者と修行僧がお互いに切磋琢磨して、求道心を育んで行く道場です。そんな中で、私は思い掛けない役を申し付けられました。それは、佐藤泰舜老師がお見えになるので、老師の行者をせよという命令です。老師は後に永平寺の禅師様になられます。盲目の禅師として有名になられた方で、当時は熊澤禅師の随行長でした。まだお一人で移動できる程度の視力はあったようで、行者も付けずお見えになりました。私は、その方の身のまわりの世話係をおおせつかったわけです。

 お会いしてみますと、子ども心にもとてつもなく偉い人だな、貴賓と風格に優れているなと実感しました。佐藤老師は、お見えになると十日間ほど滞在されました。私は着物や衣を畳んだり、お客様にお茶を差し上げたり、食事を運んだり後片付けをしたり、肩が凝ったら揉んでさしあげたりしました。

 そんな中で、大いに困ったことがありました。それは、老師は視力が落ちているので読み書きが出来ない。その目のかわりになることでした。

 ひとつは手紙を読むこと。これは本当に大変なことです。老師宛の手紙は、偉い人からのものばかりです。毛筆で草書、その上、達筆な人からのものが多い。高校一年生の私には無理な役目です。たとえば可睡斎山主高階瓏仙様、当時の管長様からの手紙もありました。

 毛筆で草書だと、さっぱりわかりません。

 「何処からの手紙かね」「しずおか…」「静岡県、それから…?」「よくわかりません…」「わかることを云ってごらん」「君が代の代みたいな字です」「フクロイシかな」「フクロ…、井戸の井みたいな字に見えます」「解った。カスイサイのタカシナロウセン管長様からだろう」「タカシナ、高はわかりました。シナはどのような字ですか」「こざと偏に皆と書くんだよ」「そういわれれば…なるほど」。

 こんな具合ですから、差出人が解るま30分位の時間を費やし、お互いにくたくたになりました。その間、二人っきりの部屋で沈黙の時間があったり、お互いにいらだちを覚えたり、じりじりとした空気が流れたりします。その淀んだ雰囲気を老師は、優しくほぐしてくれました。「お茶にしよう」「少し休もうか」などと言いながら。本文(手紙)を読み終る頃になると二人の呼吸もピッタリ合うようになる。摩訶不思議な充実感は今でも忘れません。

 もうひとつは、正法眼蔵を読むことです。

 「一日示して云く、續(続)高僧伝の中に、或禅師の會(会)下に一僧あり云々…。」

 このような文でも専門知識が全くないと、ひらがなしか読めません。「つづくたかい、そうムニャムニャ…。」老師、「ぞくこうそうでんと読むんだよ」。

 こんな具合で、掛け合い問答を繰り返して一時間もたてばぐったりです。しかし、この二人だけの空間で、多くのことを学びました。お互いに気持はいら立ち、室内の緊張感がピークになる。私は、とんでもない言葉を口にする。「そんなにピリピリするなら自分で読めばいいでしょう。僕は知りません」しばらくの沈黙。この沈黙の時間に、お互いを思いやる気持が自然に沸いてきます。自責の念か、良心の呵責か、心の底から温かいものが顔を出す。

 おそらく佐藤老師も同じだったと思います。室内の空気のほぐれでわかりました。佐藤老師の行者は2年間務めさせていただきました。その間、お茶を呑みながら手紙を読む間、いろんなご教示をいただきました。ご自身のこと、仏教界のこと、宗門のこと、そして修行について。私は大いに力不足で、なかなかその意味を解することができませんでした。

 

 稲富老師の思い

 私と一緒に寺に入った孝仁さんとは、思春期にいろんな誘惑にほんろうされました。スマートボール、パチンコ、映画等、夢中になりました。スマートボールとパチンコは、ほどなく飽きて無事に卒業。しかし映画には完全にはまってしまいました。お寺から徒歩五分位の場所に、ナイトショーを上映している映画館が二ヶ所ありました。その映画館は、それぞれが上映作品を2日間で切り換えます。二人は毎日違う映画を見ることが出来るわけです。

 映画を見たい誘惑と戦い、そして負けました。上映時間が10時20分から11時40分位。夜学から帰り、帰宅を老師に告げ、一休みして寺を抜け出す好都合の時間帯です。まるでねずみ小僧のように抜き足、差し足、忍び足で、出たり入ったり。このスリルにも酔いました。ですが、この二人の行動を師は見抜いていました。布団を敷いて出かけたはずなのに、帰ると畳んであったり、寝ているようにカムフラージュして出かけたのに、畳まれて押し入れの中に納めてあったり。終いには二人が通る廊下の足元を、懐中電灯で照らしてくれました。

 この時、私は目が覚めました。心の内から申し訳ないという気持が沸いてきたのです。2ヶ年位の間、老師は二人が出かけると帰るまで、寝れなかったわけです。どれほどの心配を掛けたことかと思い、感涙し泣きじゃくりました。そして、やっと映画を卒業したのです。老師は、何時も己の生き方で、雲水や小僧を導く人でした。

 

 澤木老師の教え

 稲富老師は、坐禅に何かを求めるな。坐禅の姿(坐相)を調え、呼吸を調え、心を調えて坐禅と一体になれとつねづね言われました。

 私の坐禅に対する考えは、間違いだったのでしょう。老師から多くの警策をいただきました。しかし、その当時の私は、坐禅のおかげで奈落の渕から、這い上がることが出来たと思っています。

 稲富老師は若い頃、澤木興道老師に師事され、仏道修行の基本、仏法の根幹を学んだと聞きました。猛烈な修行であったようです。常日頃の立ち居振る舞いに、その結果は見えました。真に幸いなことですが、私も晩年の澤木老師の提唱を拝聴することが出来ました。

 私は駒澤大学に進学すると四年間、参禅部(正法眼蔵の心を求めるクラブ)に席をおきました。参禅部は活動の一環として、火曜参禅会を開いていました。その参禅会の講師を澤木老師にお願いし、おいでいただきました。昭和36年〜 37年の2年間です。

 渋谷から二子玉川まで、東急の路面電車が走っていました。夕方6時位に玉電の駒沢駅まで迎えに行きます。老師のいでたちは、決まって法衣に頭陀袋。「お荷物お持ちしましょうか」「いらん。結構」は、決り文句です。80歳を少し過ぎた年齢とはとても思えない歩行。スタスタと。

 澤木老師の法話は、聴衆者の心を引き付けます。その場が暖かい空気に包まれ、居る者の心が清められます。優しく、おだやかな不思議な心境になるのです。老師の法話の口癖は、「天地いっぱいに生きる」「盗人すればドロボーだ」「人を騙せば詐欺師になる」「坐禅をすれば、その身そのまま仏様だ」。人間はいつどこで何をしても、その時の行ないが、その人のすべてであるという真実。常日頃から、身と口と意を慎んで生きて行く、ということだと思います。澤木老師の提唱は、法孫であった酒井得元先生、鈴木格禅先生へと受けつがれました。

 

 坐禅への思い

 私は、多くの師との出会いから仏教を学び、自身の悩みの根本に我執というものがあることに気が付くことができました。その時、心の底から「道心」というものが芽生えてきました。

 稲富老師の元で過ごした20歳前後の多感な時期、老師の修行に対する姿勢、行住坐臥すべてにおける、エネルギーの源を知りたいと強く思いました。そして、その答えは坐禅の中にあると、勝手に考えました。

 「坐禅しているときは、坐仏だよ」「煩悩即菩提だ」「生死即涅槃だよ」「修証は不二だぞ」などの提唱を聞いて「はい、わかりました」と納得できるはずもなく、自分自身に嫌気が差したこともあります。でも、坐禅をすればすべてが解決でき、安らかな日々が待っていると思い、打ち込んだのです。自分の内面を浄めたいという気持もあいまって、坐禅中は無を追求したり、悟りを求めたり、次々とわき出す妄想を追い払ったり、それはそれは忙しい坐禅でありました。  

 それが或る日、フッと気付いたのです。今この時の自分が己のすべてであることに。そして、その時から只管に打坐することが出来るようになりました。「只管打坐」を石田瑞麿著『例文仏教語大辞典』では、次のように訳しています。

 「余念をまじえず、ただひたすらに坐禅を行うこと

 坐禅に意義や条件をもとめず

 無所得の立場に立って坐禅を実践するもの」

 坐禅の基本は、調身、調息、調心です。

一、 坐相(坐っている姿)をスマートに調えること。

二、 法界定印(坐禅の時の手の形)、この印の形を正しく守ること。

三、 両肩の力を抜いて、軽くあごを引くこと。

四、 臍下丹田に心を置くようにすること。

五、 視線は、まぶたの力を抜いた地点に自然におとすこと。

 坐禅は、ビシッと坐るぞという心構えが大事です。油断すると、アッというまに煩悩のえじきになります。

気を抜くと、睡魔におそわれ居眠りをします。

 人間は生きている限り、煩悩を押え込むことはまずできません。つねに自分と同居しています。ですから、仲良く生きるのが肝要。煩悩や妄想を追いかけず、そっとしておくのです。そうしますと何時の間にか消えて、また涌き出てくる。

成願寺様で長く坐禅会の指導にあたられた鈴木格禅先生は、「人生はもがき、あえぎながら、さ迷い歩く」きれい事ではないと言われました。しかし、だからこそ「生かされて生きているこの生命を、無駄にしない生き方をしなければいけない」と。人生とは、つまるところ自分との戦いです。自分の中から涌き出ずる悪(誘惑)に打ち勝って、善行に務める努力を続けることだと思います。

 

                                                      以下次号