平成十九年 納めの観音・年末の会 説教

 

 人生の旅 ─四国八十八ヶ所巡拝に想う─

 

          新宿区 長光寺 住職 松倉太鋭

 

 みなさん、こんにちは。この中野坂上から靖国通りをずっと行きますと職安通りがございますが、職安の前の長光寺というお寺の住職をしております。目の前は歌舞伎町で、そんなところになんでお寺があるのかとみなさん驚かれるのですが、お寺のあるところがにぎやかになったということで、歌舞伎町は江戸時代は大名屋敷でした。反対側の百人町は武家屋敷でして、百人組の鉄砲隊が駐屯していました。長光寺の檀家さんの約一割は、元は百人組鉄砲隊の家柄なんです。

 私は十年前に長光寺の住職に就任しましたが、お寺の生まれではありません。風来坊のように全国あちこちのお寺にお世話になりました。そんなわけで勉強はあまりしていませんで、どちらかというと実践でやってまいりました。それできょうは、その一つとして巡りました、四国八十八ヶ所のお話を申しあげたいと思います。

 

 山本玄峰禅師の生涯に受けた感動

 私どもの宗派は禅宗、曹洞宗でございまして、八十八ヶ所は真言宗の弘法大師の霊場です。日本の仏教はおおらかでいいですね。弘法大師のお寺へ行っても、何しに来たとは言われません。よく来たねと言ってくださる。

 私の父は公務員でした。わけあってお寺に入ることになったのですが、右も左もわかりませんので、まずは曹洞宗の大学、駒澤大学へ通いました。群馬県に私の師匠がおりまして、卒業間近に師匠のところへ参りますと、笠と手甲脚絆と道具が用意してありました。卒業式を迎えないうちに、そのまま雪の降る永平寺へと修行に上がりました。

 先輩の修行僧に禅宗のもう一つの宗派、臨済宗の静岡県三島の龍澤寺で修行をした人がいました。私は夜の坐禅が終わるとその先輩のところに行って、山本玄峰禅師という臨済宗の管長をつとめ、龍澤寺の住職になられた方の話を聞きました。私はその玄峰禅師のお話に非常に感動したのです。

 どういうことかと申しますと、その方は産みの親に捨てられて、農家の人に拾われ、二十歳ぐらいまで育てられました。ところが底翳という目の病に冒されて視力を失ってしまわれた。農家にとって目が見えなくなるということは死活問題です。三年もの間、あちこちの病院でいろいろと治療を受けるわけですが、治らない。悲嘆に暮れながら養父母の家を出て、八十八ヶ所遍路に向かうのです。

 みなさん、八十八のお寺を歩いて回ると何キロになると思われますか。1400キロあります。ちょうど東海道を行って帰ってくるぐらい。ですけど平らな道ばかりではありません。

 玄峰禅師はその1400キロの道のりを、目の病が治りますようにと願を掛け、なんと裸足で七回も歩いたそうです。そして七回目、十三番の焼山寺に至ると、薄っすらと見えてきたというんです。信仰の力はすごいですね。お医者さんもさじを投げた病気が、見えてきたというんですから。私はこの話を先輩から聞いて、生涯に一度でいいから同じその道を自分も歩いてみたいと心に秘めるようになりました。

 玄峰禅師は、三十三番雪蹊寺というお寺で山本太玄和尚と出会います。そして弟子になるわけですが、その時の言葉がいい。「私は学問もない。小学校しか出ていない。いくらか底翳が治ったといったって、目は薄っすらと見えるぐらい。こんな私でも和尚になれるのでしょうか」と問いかけますと、雪蹊寺の住職がこう言うのです。「親からもらった目はいつかは見えなくなる。しかしこころの目は一度開けばつぶれることはない。坊さんはいくらでもいるけれど、おまえさんは心眼を開いた本物の坊さんになれるよ」。

 玄峰禅師はこのお寺で出家して、それから臨済宗のあちこちのお寺で厳しい修業に打ち込むわけです。小学校しか出ていない方が、やがて臨済宗妙心寺派の管長までつとめられた。八十八ヶ所を七回も巡った願心の強い人です。ぜひ私もまねをしたいと思い、遍路への旅に出ました。それが二十七歳の時でした。

 

 甘くはない遍路の道

 きょうは観音さまのご縁日ですが、八十八ヶ所のうち観音さまをご本尊とするお寺はどのぐらいあると思われますか。三十のお寺が観音さまです。私は何のお経をあげていいのかわからなくて、「観音経」の最初からの「爾時無尽意」から唱えて巡ることにしました。

 永平寺の修行がいくら厳しいとは言いましても、寝る場所と食べる物はあります。ところが遍路に参りますと、寝る場所がない。食べる物も保障がない。禅宗には「肩あって著ずということなく、口あって食はずということなし(肩があったら着る物はついて回る。口があったら食べる物がついて回る)」という言葉があります。お金がなくたってきっとなんとかなる。とにかく自分の力を試そうと、笠をかぶって衣を着て徳島の一番霊山寺から歩き始めました。

 霊山寺から始めてみますと、2キロぐらいしか離れていないところに次のお寺があります。次へ行くとまたすぐ次がある。出だしから調子がいいのです。なんと一日目に五つも回って、「あと残り八十三ヶ所。これだったら大丈夫だ」なんていい気になって、暗くなりましたので木の下で合羽をかぶって眠りました。ところが次の日の朝、起きましたら足がまめだらけ。水路に足を入れて冷やしましたが、その日は10キロも歩けません。

 一番、二番、三番が離れたところにないので、最初は調子づいてパッパパッパ回れる。これはうまく考えたなと思いました。ところが、明くる日には足にきてしまう。もういやになります。マッチの火で針を焼いて消毒し、まめの水を抜いて赤チンをつけてまた歩きましたが、足が痛いうえに野宿した翌日に歩くというのはなかなかたいへんです。そうして暗くなりますと、今夜はどこに泊まるかと心細くなる。

 

 人々との出会いと信仰の心

 私は朝起きると七軒のお宅を托鉢して回りました。喜捨していただけるお宅ばかりではございませんでしたが、「いまどき歩いて回るんですか」なんて食べ物をくださったり、飲み物をくださったり、ありがたいことはたくさんありました。遍路をしておりますと、お接待といういい制度があるのです。でも三食いただけるわけではないですね。だいたいははらぺこで、疲れも出てくるわけですし、夜は蚊が来てなかなか眠れない。

 いろいろな場所で野宿をして二つ学んだことは、夜露のかからないところと温かいご飯があったら、もうそれでありがたい。もうそれで長者のような生活です。でもそのことが普段の生活ではなかなかわからない。

 それでも私は衣を着て歩きましたので、衣の功徳でずいぶん助けられました。全て巡るのに四十五日かかりましたが、「そんなところに寝ていると風邪を引くから、うちへ来て泊まりなさい」と声を掛けてくださって全体のうち十日ぐらいは、お接待で泊めてもらいました。

 そういう人の情けに会うんですね。これはやはり歩いていたからです。楽していたのでは人の情けには会えません。ある雨の日のこと、トラックの運転手さんが「おい、乗れ」と声を掛けてくれました。「ありがたいですけど、歩かないといけないのです。ありがとうございます」と言ったら、「ばか野郎」とそのまま走り去っていった。

 そのトラックを見送り、本当は乗せてもらいたかったなと思いながら、1キロぐらい歩いて行きますとドライブインがあって、そこのおかみさんがお皿を持って待っていてくれたのです。何だろうと思ったら、「いま運転手さんから、後から変なのが来るから、このおでんを食べさせてやってくれ」とお金を置いていったというのです。「世の中にはこういう温かい人がいるんだな。ありがたいおでんだな」と思うと、涙でおでんがしょっぱかった。人の情けのありがたさに触れ励まされ、また頑張ろうという気になります。

 遍路の旅は同行二人、お大師さんとつねに一緒に巡ります。私はただの雲水ですが、笠をかぶって歩いているのを人が見て、なかには「お大師さんが来た」と、車を止めて喜捨を置いていってくれる人がいるのです。

 またある日は、前夜、雨に降られてあまり眠れず、疲れ果てて子安弘法大師というお寺で休んでいました。そうしましたらその日がちょうどご縁日で、子どもが健康に大きく育つようにと、赤ちゃんを連れたお母さんがたくさんお参りにきていました。

 そのお母さんたち、私の姿を見ますと「お遍路さん、子どもを抱いてください」というのです。「はい、いいですよ」と抱いたら、200円置いていった。そうしたら次の人も「抱いてください」とまたお金を置いていって、気が付くとずっと行列ができていました。その日はそのいただいたお金で遍路宿へ泊まることができました。前の日は雨で、「いやになっちゃう」なんて思ったり、眠ることもできなかったのが、次の日は遍路宿に泊まってお風呂に入ることができた。私と同行してくださった弘法大師の功徳、その土地の信仰心に助けられたわけです。

 世の中、苦しいことがあれば、必ずその次には助けてくれる人がいる。人生というのは、苦があったら、必ず楽も来てくれる。そう考えますと、八十八ヶ所遍路というのは人生の旅と同じです。私はお寺の修行と違ういろんなことをずいぶん学びました。人との出会い、そしていろんな話を聞きます。

 ある時は真言宗の和尚さんと、接待で一緒に二晩泊めてもらいました。真言宗の方は「理趣経」、私は「観音経」とそれぞれ違うお経をあげて、また一緒に歩く。泊めていただくとお風呂に入ってご飯がいただける。布団に眠れる。ずいぶんありがたいことです。そういうことをあたりまえと思ってしまいがちですが、そうすると、幸せはなかなか感じられないのです。この「あたりまえ」というのはくせものですね。

 

 歩くからこその気づき

 最近は定年を過ぎてご夫婦で巡る人が多いようですが、朝起きると、夜の宿を携帯電話で予約されます。車で回ると十日間。ですけど、歩いてみますと車で行くより十倍いろいろな学びがあります。人との出会いはもちろん、都会では見られないような花が咲いていたり、生きものが交通事故にたくさん遭っているのがわかる。一番多かったのはカエルです。1メートルおきぐらいにカエルが交通事故でぺちゃんこになって死んでいます。車ではなかなかそこまではわからないのですが、歩くとそういうこともわかる。

 車社会は便利でいいのですが、すべてをあっという間に過ごしてしまいます。信仰の世界では、通り過ごしてしまうというのはあまりいいことではないのです。地べたを歩くからこそ気づけることがたくさんあります。

 それに、歩きますと体が非常に健康になります。最初は足にまめができてたいへんだったのですが、なれると非常にスピードが出るようになりまして、一番歩いた時は一日に50キロ歩きました。朝五時から夜八時まで歩きっぱなしです。ただし次の日に疲れが出てしまうので、平均35キロがいいところです。

 私が50キロ歩いたときは、山口から来た方とご一緒しました。その方は一日にお豆腐一丁しか食べない。おしょう油をかけて夜に食べるだけで、あとは飲み物ぐらい。そういうスーパーマンみたいな人にも会いました。

 歩いていますと自分の体が筋肉質になって、余分なぜい肉がなくなります。みなさまも健康を考えるなら、お歩きになることがいいと思います。足を鍛えると内臓もよくなるようです。それと頭もすっきりする。都内だと歩くのはなかなかたいへんですが、歩くということは健康にもいいのです。

 そんなことで、45日目、八十八の満願を迎えました。感動と感謝の思いでおりますと、旅を共にした杖を「家宝にするから売ってください」という人が現れました。差し上げようと思いましたが、一番の霊山寺にお礼参りに行き、高野山奥之院の弘法大師のところに報告に行くつもりでおりましたので、ありがたくご喜捨いただき、そのお金で船の切符を買うことができた。

 そうやって、いろんな方がお大師さんであり、観音さまのようでした。なかには冷たい観音さまもいらっしゃいましたが、それはそれ、冷たくするのも観音さまです。やっぱりみんなありがたいのです。

 八十八ヶ所を歩くことによって、つらいこともたくさんありましたが、多くの人に支えられて、楽しいこと、ありがたいこと、勉強させていただくことがいっぱいありました。幸せってどんなことか、まざまざとわかってくるわけです。

 この体、このいのちは、観音さまのいのちをいただいています。観音さまとぶっ続きです。そういう信仰を持っていただくと、観音さまのこころの目が開かれる。観音さまの「観」というのは、こころの目で見るということ。こころの目を開くということです。私がみなさまにお願いしたいのは、ぜひこころの目を開いていただきたいということです。

今日は観音さまのご縁日、八日、十八日、二十八日にちなみまして、八十八ヶ所を巡ったお話をさせていただきました。みなさま方、ぜひこれからもお詣りを続けていただきたいと思います。本日はありがとうございました。

                                合掌