連載・第三回

『一人では生きられない、人の一生』

                   百武正義

 

 昭和44年の7月頃だったと記憶していますが、上野駅のホームで、成願寺の先代・義堯老師との出会いがありました。この時の顛末は後述しますが、その縁結びの神様は、藤木道明師(滋賀県東円寺)でありました。

 私と道明さんは、駒澤大学の同期生です。彼は昭和40年3月、大学を卒業すると大本山永平寺に一年間、安居(修行)しました。彼の修行生活について私はまったく知りませんが、本山には、そこに修行する若者達を大きく成長させる力があります。

 翌年(41年3月末)から道明さんは、やはり同期の横山弘道師と共に、私の修行寺であります長崎県晧台寺の安居僧となりました。

 学生時代はお互いに挨拶を交わす程度の仲でしたが、同じ屋根の下で生活を同じくすれば、たちまち気心は通じ、お互いを理解するようになりました。人生の中で最も横柄で生意気な時期に、意気投合して互いに修業を楽しんだ時でした。

 

 晧台寺での道明さん

 図らずも同期の友が三名揃い、その年は夢のように過ぎ去りました。この間の思い出を二つ紹介します。

 

 ある晩、私達、百武・藤木・横山の三名は、市内屈指の歓楽街、銅座町に向って意気揚々と歩いていた。思案橋の交番を過ぎた時、突如その出来事が発生した。「何だ、なにごとだ」と思う間もなく五〜六名の愚連隊らしき若者に囲まれた。と、次の瞬間、道明さんは、電光石火、アッという間に全員を投げ飛ばしたのである。私は唖然とした。

 そして道明さんが、柔道の達人であることを再認識したのであった。もちろん、彼に呼吸の乱れはなかった。「相手が勝手に転んだよ」と笑った。しかし翌日から困ったことが始まった。お檀家詣りの道中、パチンコ屋の前を通ると、チンピラ風の若者が「オッス」「ご苦労さまっす」などと声を掛けてくる。「おい、よせよ、かんべんしてくんなよ」相手を呼び寄せ耳元に囁いた道明さんであった。

 今ひとつ、あれは暑い真夏の出来事であった。

 私と道明さん「暑いなあ、ビールでも呑みに行くか」と夜の街へ繰り出した。本山のこと、人生のこと、仏教の役割などなど、口角泡を飛ばして論じ合っているうちに、午前2時位になってしまった。どちら共なく「帰ろうや」。抜き足差し足で庫裡の玄関をそおっとあけて、びっくり仰天した。

 真正面で稲富老師が坐禅を組んで居た。真夜中に、しかもパンツ一枚だった。「おい、どうする」「仕方ない、そうっと入ろうや」二人は老師の前を横切ろうとした。その瞬間、老師の静かだがドスの利いた声が響いた。

 「お前達も下着で座れ」「ハイッ」。

 それから一時間、老師と共に正座をした。そして、「今日も如常(「常の如し」いつもの事)だぞ」で終った。悪いことをしたと深く反省した二人であった。

 

 やがて1年が過ぎ、横山師は寺を継ぐため鳥取県へ、藤木師は教壇に立つことが決って、滋賀県へとそれぞれ帰省。昭和42年3月のことでした。

 私は、その4月から、46年3月までの四年間、曹洞宗宗務庁所管の教化研修所に籍を置き、その間「お釈迦様の教え、道元禅師の教えをどのように広めるか」という難題と格闘しました。

 当時のことを回想すれば「井の中の蛙、大海を知らず」で、「教化」という言葉の中で、理屈遊びをしていた気がしてなりません。しかし、多くの友人に出会い、人間形成には大いに役立ったと思っています。

 

 成願寺様との出会い

 そんなある日、教化研修所所長、服部松斉先生のカバン持ちで上野駅へ出向きました。縁は異なもの味なものといいますが、そこで千載一遇の出会いがありました。

 

 私は役目を終えてホームを改札口へと歩いていた。そのとき誰かが私の肩をバシッと叩いた。振り返ると、そこに道明さんがいた。あの満面の笑みで「よお、何してんだよ」「お前こそ何してんだよ」。

 二年半ぶりの再会である。「オレはなあ、今やくざの用心棒やってんだよ」「えっ? 教員をやってたんだろう」「つまらんこと云う奴がおってな、そいつを殴って辞めたんだよ」「そして用心棒か…」。

 私は正直愕然とした。教員をやめてやくざの用心棒? 映画じゃあるまいしと思ったのだ。

 「そのやくざはどこに居るの?」「あそこだよ、あれが俺の親分だよ」。道明さんが指差すその先に、やくざの親分! いや大親分と思しき人が居た。威風堂々と辺りを威圧していた。「すげえなあ」「そうだろう」。得意満面の道明さんの笑み。

 親分の服装はシャレていた。上下を白のスーツでビシッと決め、ピンクのオープンシャツという出で立ち。有髪で眼光は鋭く、近寄り難い雰囲気が伝わってきた。

 「実はな、お坊さんなんだよ」「ええっ?」「中野の成願寺の方丈さんだよ」「そうか…、有髪とは珍しいなぁ」。

 これが先代・義堯老師との強烈な出会いである。

 

 このことが縁となり、私は成願寺へ出入りするようになりました。道明さんの友人だということもあり、義堯老師は私を大層可愛がってくれました。

 「坊さんはな、世の中の役に立つ生き方をせにゃぁいかんぞ」。「仏教の教えは毎日の生活の中で実践できなきぁ意味ないぞ」などなど、方丈の間や、ある時はストレッチをしながら教示してくださいました。

 また、成願寺は法事も多く、よく手伝いをさせていただきました。その時の義堯老師の印象が今でも脳裏に焼き付いています。

 

 法事の時間が近づくと、参列者が本堂東序に座る。和らかな雰囲気が伝わり、何やらボソボソと囁き声が聞えてくる。やがて鐘の音に合わせて義堯老師が登場。本堂の空気が一変する。シーンと緊張感が漂い、皆が借りてきた猫のようになるのだ。

 30分程の読経が終ると、老師はゆっくり参列者と接見する。怒られまいかとビクビクしている参列者にひと言「ご苦労さん」と云って退場する。老師の姿が見えなくなると「ふうーっ」と深呼吸。和やかな雰囲気に戻るのだ。「有り難いなあ」で一座終了。

 「ご苦労さん」のひと言で「有り難い」。これ当時の檀家さんの本音だと、今でも思っております。