平成20年 盂蘭盆会 説教

『いま、なぜ道元か』

   新宿区長泰寺住職 駒澤大学総長 大谷哲夫

 

 21世紀はこころの時代、と言われはじめたのが1980年代、バブル崩壊の兆しが見えはじめたころのことでした。だれかが先を見通して、こういった警鐘を鳴らしたわけです。いつの時代にも、こういう先の見える人が必ずいますが、20年以上前に言われた「こころの時代」ということを、われわれは見過ごして、いまのこうした時代の中にいるのです。

 近年続けざまに起きている動機なき殺人、無責任極まりない幼児虐待。秋葉原で起こった無差別殺人や、おじいさんによる一家四人殺しなどはいったい何なのでしょう。タクシーが列をなして役人を接待する。教育者が自分の息子かわいさに、お金を出して教員にしてくれなんて、そんな社会になってしまいました。

 日本は経済大国になりました。私たちの先輩方が太平洋戦争の荒廃から復興へとひたすらに歩み、発展と同時に物質至上主義、お金で何でも解決するといった拝金主義の究極を経て、いまや戦後の復興史の終わりを告げる時であります。

 資本主義の悪しき現象に、多くの政治学者や経済学者が様々に処方せんを書きましたが、少しもらちがあきません。テレビの報道では、連日同じような解説が繰り返され、単なるコメントの羅列のたれ流しをしています。こういったことが、本質的な解決の一里塚になっていると思いますか。これらは、私たちに空虚感を植えつけているだけのような気がしてなりません。

 ところが、本当はだれもがすでに気づいているはずです。私たちのこころの内とそれを取り巻く社会の荒廃は、いったい何によってもたらされているのか、本当は気がついています。それは、政治家も、経済人も、学者も、芸術家も、教育者でさえも、戦後教育のなかで宗教的倫理観を喪失してしまったということ。われわれの先祖たちが確固として築いていた、土着化した仏教、儒教、そういったものを中心とした倫理観を無くしてしまったことなのです。このことこそが大きな問題なのです。目に見えない閉塞感の中で、世の中が悪いんだ、不安なんだと人のせいにするばかりでなく、戦後教育には、日本特有の文化をないがしろにする部分がひじょうに多かったと、このことを大いに反省する時を迎えているのではないでしょうか。

 

 伝えるべきことを喪失した日本

 日本は明治に時代を移したときも、それまで生活のなかに自然とあった仏教を排除しました。戦後教育のなかでも同じように、例えば学校で使う教科についてのことばの多くは外来語です。直接的な教育の面だけではなく、カタカナで表記される言葉のなんと多いことでしょう。そのことすべてを非難するわけではないのですが、単純に取り入れてきた日本があまりにもだらしがない。新幹線の車内雑誌に雑賀孫一という方の「敗戦と繁栄で『大切なもの』を失った日本人」という記事が掲載されていました。主旨を紹介してみます。

 

 近頃、在日韓国のエリート弁護士の話を聞く機会を得た。彼は、ソウル大学、ハーバード大学卒でアメリカの弁護士資格を持つ。日本の一流企業のクライアントもひじょうに多い人だ。彼は言う。かつて、私は日本人というのは大したもんだと尊敬していた。韓国人が百年たったって、けっしてかなう民族ではない。すごいなと思い、日本人が怖かった。しかしいまはこれっぽっちも怖くない。日本人に対しては畏敬の念すらもうなくなった。

 なぜそう思うんだ。教育がないでしょう。いやいや、とんでもない。わが大学の教育はしっかりしているではないか。小学校だって、中学校だって、高校だって、ちゃんとやっているではないか。いや、そういう意味じゃないんだ。日本に伝わっている大切なものを捨てて、子どもたちに伝えようとしていないじゃないか。私の子どもは、人前でも礼儀作法や親に対する姿勢がしっかりしている。日本人は、日本人を捨てようとしているんじゃないか。どういう意味か、日本人は新しい人種になろうとしている。変なアメリカ人にさえなろうとしている。勝手にそう思い込んでいる。まねしたって絶対なれるわけがないのに、そう思っている。

 もう少し具体的に言うと、仕事柄、日本の大手の企業の渉外の人たちとよく会う。このところ、その人たちががらっと変わってしまった。その人たちは国益をまったく考えていない。自分のことしか考えていない。自分の立場だけを優先している。昔の日本人の良さなんてひとつもない。なろうとしているアメリカ人などにとてもなれないのに、そのように思っている。

 

 みなさん、どうですか。「教育がない」というのです。これは勉強ができるかどうかといったこととはぜんぜん違いますね。こういった調査データが同じ紙面に出ておりました。

 「うそをつかないようにしなさいと父親からよく言われる」日本11%、韓国41%、アメリカ47%、イギリス44%。「先生の言うことをよく聞きなさいと父親からよく言われる」日本16%、韓国47%、アメリカ56%、イギリス53%。「いじめを注意したことが何度もある」日本4%、韓国9%、アメリカ28%、イギリス17%。

 日本の家庭でのしつけということはどうなってしまったのでしょう。この子どもの正義感の欠如はどうすればよいのでしょう。この調査データは、まさに敗戦によって崩壊した価値観を、戦後新しく築けなかった日本人の一面を辛らつに突いたものだと思うのです。

 私たちのこころの内とそれを取り巻く社会の荒廃は、いったい何によってもたらされているのか。だれもが気づいています。繰り返しますが、日本の荒廃の本質的な原因は、政治でも経済でもない。本当に崩壊し無くしてしまったのは、日本人が矜持すべきものを捨て去ってしまったことなのです。

 ではなぜこうなってしまったのでしょう。日本は敗戦を迎えて、教育をめちゃめちゃにされました。欧米各国がいちばん怖かったのは、じつは日本の教育であったといいます。戦時中の教育は確かに悪いところもあった。でもいいところもたくさんあったのです。そのいいところを、欧米各国は崩壊させたかった。それにものの見事に乗ってしまった人たちがいるわけです。このことは、アメリカの学者が言っていましたよ。われわれは本当に反省しなければいけないと思います。

 そういう私も戦後の教育を受けました。戦後教育もすばらしいところはあるのです。でもどうしようもなく悪いところがある。それは公的な教育の場から宗教的教育を抹殺したことです。手を合わせることすら拒否拒絶している人たちがいるのです。

 私の教え子が幼稚園の先生になりました。子どもたちに、「手を合わせて、いただきますをしましょう」と言ったら、先輩先生に、「合掌は特定の宗教ですからやってはいけません」と怒られたというのです。そうではないですね。合掌は食べ物に対する感謝の気持ちを現したわけです。そんなことすら誤解する人が、幼稚園で子どもたちに接している。

 江戸時代は儒教の、神道の、仏教のいいところをやさしく説いて、合体させて寺子屋で教えていました。これが情操教育でした。それを小学校教育が引き継いでいたわけです。しかし戦後には、その宗教的情操教育が無くなってしまいました。

 私の知人の話です。彼がアメリカへ行った時、歓迎のホームパーティーに呼ばれたそうです。その時、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれた。彼は「私に宗教はありません」と応えた。そうしましたら、翌日からどの家も彼をパーティーに呼ぶことはなかった。

 なぜでしょう。アメリカ人の多くは、日曜日にドレスアップした奥さんと子ども、そして自分もネクタイをきちんと締めて、教会でお祈りをします。生活の一部としてあたりまえに宗教を持つアメリカ人にとって、私の知人は奇異な存在に映ったのでしょう。

 彼はびっくりして「大谷、駒澤大学の宗教は何だ、一神教か、多神教か」なんて聞いてくるわけです。仏教の何たるかをまったく知らない。そういう教育をこれまでぜんぜん受けていない。宗教を持たないことがインテリだと、ばかげた解釈をしているわけです。

 宗教教育なき教育は知恵ある小悪魔を育ててしまうのですよ。私は仏教徒であると、きちんと言えばいいのです。正しい宗教は人の心を育むもので、決して人を侵すものではないのです。

 戦後60年以上たっていますが、この間に無視し続けた宗教的情操教育を中心としたこころの問題に、きちんと目を向けなければなりません。

 おそらく、無益な殺人が行われたような家には、神棚も仏壇もないでしょう。おじいさん、おばあさんが毎朝神棚に柏手を打ったり、仏壇にお線香を立てている姿があれば、あんなむごいことは起こらないはずです。そういうことから神仏を敬うこころ、先祖に対する感謝の念が生まれる。食べ物にいただきますという思いが生じ、自然と手が合わさるのです。

 われわれが失ってしまったものは何か。私たちが取り戻すべきものは何か。その探求がない限りは、日本の崩壊は進んでいきます。私は単に過去に返れと言っているわけではありません。悪いものは悪い。いいものはいいのですから、いいものを取り戻して伝えていかなければいけないということなのです。

 

 求道を続けた道元の生涯

 そのひとつの手がかりとして、最近とくに仏教に対する関心、興味を持つということが大きく取り上げられてきています。仏教に関する本も各宗派、入門編から難しいものまでたくさん出版されています。仏教というのは、いつの時代であっても、その時代に生きる人々にとって極めて重要な魂の安らぎの場であります。癒しではないのです。癒しというのは瞬間的なものです。安らぎというのは生涯にわたるものです。

 私たちの祖先は、仏教と出合うことによって、自然とともに生きる勇気とあらゆるものに対する慈愛のこころを獲得してきました。ところが明治時代以降、欧米の文化を取り入れるのを急いで仏教が邪魔になり、否定して廃仏毀釈も起こりました。でも、こころに伝わってきたことです。正しいものが完全になくなることはないんですね。こころの安らぎを求める現代の人々が、魂を根底から揺るがし安らぎを与えてくれる仏教を、理屈ではなく、直感的に支持しているのです。

 さて、そこで「いま、なぜ道元か」。約800年の昔、道元禅師という方がおられました。この方の教えの根本は只管打坐。ただひたすらに坐るということです。それに徹して一箇半箇の接得に生涯をささげました。道元は権力と交わることなく、政争などの混乱から自らを隔絶して、断首の思いにも流罪の憂き目にも遭っていません。女人への身を焦がすような思いもない。

 道元の仏道を求める果てしない旅路は、14歳ではじまります。「草木国土悉皆成仏」「一切衆生悉有仏性」草、木、国土、みんなほとけのこころを持っている。難しい言葉ですと、「顕密2教ともに談ず。本来本法性、天然自性身と。若しかくの如くならば三世の諸仏甚によってか更に発心して菩提を求むるや」。人間というのはもともと悟っている。それなのになぜ修行が必要なんだ。こうした日本仏教に対する疑問、これは本学思想というのですが、この疑問を14歳の道元は抱いたわけです。ところが、この疑問に満足な答えをくれる人は、日本にだれ一人としていなかった。そこで、栄西の弟子である明全という師匠と一緒に中国、当時の宋へ渡って行きます。そして、紆余曲折をへて、天童如浄という正師に会われるのです。

 中国浙江省の天童山に夏の風が吹き渡り、緑が濃くなった季節。宝慶元(1225)年のことです。道元は1200年に生まれて、1253年に亡くなっていますから、この年、26歳。この時はじめて、探し求めていた天童如浄という、自分とぴたりと合う正師にお目にかかることができた。道元は如浄の姿を見たその瞬時、正伝の仏法を受け継ぐ師を見出したといいます。如浄も同じく道元の非凡な器量を見抜き「仏仏祖祖の面授の法が成った」と言われた。面授というのは顔と顔を突き合わせることをいいます。

 如浄は、道元の期待にたがわない風貌を見て、瞬時に悟ったのでしょう。「稀代不思議の奇縁」と大いに満足したといわれています。2人はともに仏法に生かされている自分たちの存在を確認し合った。「仏仏祖祖の面授が成った」というそのことばに、道元は如浄の期待の大きさをひしひしと感じた。

 それでは、この天童如浄とはどういう人であったのでしょう。

 19歳の時から一日一夜も坐禅をしない日はなかった。住職となる前から故郷の人たちと話などしたこともない。それは坐禅のための時間が惜しいからである。修行中は自分の足をとめた僧堂から出たことはない。物見遊山などとんでもない。修行の邪魔になることは一切しなかった。生涯すべてを坐禅に費やした。いつも坐禅をするための坐蒲を持って歩き、時には岩の上でさえ坐禅をした。釈尊が極めた金剛坐を坐りぬくという気概を持って坐禅した。時には尻の肉が破れたこともある。しかし、そういう時はなお坐禅を続けた。

 如浄は天童山の住職になったとき、同じことを修行僧に課しました。そうしましたら、坐禅をもうちょっと短くしてくださいと文句が出た。如浄は「本当に道心のある者はいくら長くても喜んで坐禅をするものである」といって一蹴した。

 しかし、ある日、如浄はこうも言っています。道元が仕えた時は、すでに63歳ぐらいになっておられた方で、800年ぐらい前のことですから、いまでいえば80か90歳とみてもいいでしょうか。

 私は年老いた。そろそろ庵をむすんで老後の生活に入ってもいい。でも、この寺の住職であるあいだは、修行者諸君の迷いを覚まさねばならぬ。仏道修行を助けるために、私は叱ったり、怒鳴ったり、拳を振るったり竹箆で叩いたりする。だがこうしたことは、ほとけの子である修行者諸君に対してたいへんに申し訳ない。まことにおそれ多いことで、このようなことはしたくはない。しかし、これは私がほとけになりかわってすることであるからどうか許してもらいたい。

 如浄は涙ながらに訴えたというのです。その後、修行者たちは、師の慈悲あふれるこの誠実さに感動し、如浄に打たれることを無情の喜びとした。そうしてそれまでの怠惰な天童山が一変していくわけです。

 道元はそういう人のもとで本当の仏道修行をはじめます。仏道に励む人間のすごさを肌で感じ、たとえ厳しい修行で病気になり死ぬことがあろうとも、この師のもとで坐禅を続けようと修行に励んでいく。

 そして、おそらくいまごろの季節です。朝の坐禅の時間に、道元の隣で居眠りをしている修行僧がいた。如浄は、坐禅は一切の執着を捨ててしなければならないのに、居眠りするとは何事かと言って、自分の履いていた木靴で殴りつけた。隣で坐禅に没頭していた道元は、この一喝で大悟することになる。

 道元はこの坐禅が終わったあと、如浄のもとへ行き焼香礼拝します。すると如浄が「何のための焼香か」と声をかけた。道元は「身心脱落いたしました」と言うのです。これはすごいことばでして、坐禅の究極は、すべてを捨て去る以外にないということです。宝慶元(1225)年7月の初め、道元禅師26歳、14歳で抱いた大きな疑問を、如浄禅師の膝下の只管打坐によって解決したのです。

 人間には生まれながらにして豊かな仏性が備わっています。だけれども、この仏性はそのままではだめなのです。修行しないことには実現しない。さらに、たとえその仏性が実現したとしても、確かにそのとおりであるということを体認、つまり体で知るということが大事なのです。道元禅師は、これを修証一等ということばで表されています。つまり修行そのものがそのまま悟りの証であるということ。

 わが曹洞禅の宗義はここにあります。

 修行は、いわゆる悟りを開いた上での修行というのが、道元禅師の只管打坐の世界です。それゆえにただ修行すべき。修行のほかに悟りがあることを期待してはいけないわけです。ところが修行を続けていれば悟りが落ちてくるんだと考える人がいる。それを待悟禅というのですが、そんなことはあり得ないのです。修行と悟りは別物だと考えて、悟りを目的とした修行を道元禅師は否定されているわけです。

 一生懸命坐禅している人がいました。そこに和尚さんがやってきて「何をしているんだ」。「悟りを開くために坐禅をしております」。和尚さんは庭先へ下りて瓦を拾い、ごしごしと磨き出した。その姿をみたその人が、「和尚さん、何をしているんですか」「この瓦を磨いて鏡にしようと思っている」と応えた。そこでその人はハッと気がつくのです。そういう逸話があるほどに、悟りと修行を区別して考える。坐禅をして悟ろうとする。それが本来の目的ではないということです。

 人間というのは、苦境に立たされた時、悩み、惑い、くじけます。そこに人間の弱さを感知することはたやすい。でも、道元禅師は違うのです。苦悩し、くじけそうになりながらも、そこで姑息な解決をけっしてしなかった。その姿勢は終生変わらなかった。その求道の果てしなき旅路は、自己という存在を認識する方向に向けて、終わりなく続いたのです。その凛とした正伝の伝授者の存在が、時空を超越して、いまここに見直されてきているのです。         合掌