平成21 盂蘭盆先祖まつり 説教 佛法に学ぶ」

        長野 玄照 住職 葦澤義文


みなさん、こんにちは。今日は
長野県小布施町からやって参りました。小布施町は近年、栗と文化のまちとして多くの観光客を迎えています。栗は江戸時代から栽培され、江戸幕府に献上した歴史があります。一方、天才絵師として有名な葛飾北斎が何度か逗留して、肉筆画を遺しています。

 そんな中で最近また一つの名物ができました。小布施町見にマラソンです。今年で七回目なんですが、驚くなかれ、今年は人口1万2千弱の町へ申し込みが7千6百人もあったんです。今年は来週の7月19日に行なわれます。

 私の寺の話をさせて頂きますと、以前四月の第三土曜と日曜に苗木市をやっておりました。苗木市が時代と共に廃れますと、それに替わって境内アートをやりだしました。今年で六年目になります。これは若手の作家、物創りの人に出展をしてもらい、自分で創ったものを売ってもらう催しなんです。今年の四月私の寺の春の大般若法要の縁日に合わせて行なったわけでございます。120くらい出展をしていただき、境内で二日間の展示しました。


日々是修行の教え

 ちくま新書から佐々木閑という人が「日々是修行」という新書版を出しています。この「日々是修行」の本の内容は通教といえば通教なんですが、どちらかといえば禅宗系の教えを踏まえた教の教えが書かれています。禅語に「日々是道」あるいは「日々是好日」という熟語がございます。多分これとだぶらせている本の題だと思います。私どもが読みますと非常に解りやすく書いてある本だと思います。皆様方も書店に行かれたら佐々木閑という人の「日々是修行」を手に取ってみて下さい。

 曹洞宗は皆さんもご存じの通り禅宗の一つであります。今日の日本には禅宗と呼ばれている宗派が三つございます。曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の三つが禅宗系であります。よく曹洞宗と臨済宗の教えの違いは何かと聞かれます。しかし、これはなかなか一言では難しくてえません。解りやすくいうと多分に大事なことが抜け落ちるわけですが、道元禅師の説いた坐禅というのは積み重ねていく坐禅ではないんです。一日一日、一回一回の坐禅が絶対のものなんです。修行して一定のところまで到達したからといって坐禅は終わりではないのです。まさしくこの「日々是道」「日々是修行」と共通するわけでなんです。


佛法に生きる願い

 宮沢賢治という類い稀な作家がいました。宮沢賢治は世界全体が幸福にならない限り自分の幸福はありえないという有名な一節を残しております。自分を律しない限り他人の幸せもない。そして他人の幸せがなければ自分の幸せもないという両方に通じるわけです。

 最近、私も宮沢賢治の「雨にも負けず‥」の詩をときどき読み返すんです。宮沢賢治こうしたことを成就しとは言っておらずに、一番最後にそういうものに私はなりたいと願っているわけであります。あれは本当に法に生きる願いですね。


佛教語の漢字の読み方

 教の言葉は呉音で発音するという決まりになっています。これは中国の六朝時代。今から1500年以上前、六つ国があった時代があるんです。その国の一つ呉の国というのがあったんです。この呉の国で教が栄えて、日本に教が伝来した以降もそのときの読み方使うようになったんです。そんなわけ教の言葉はほとんど呉音で読みます。したがって一般的な読み方と違う読みがけっこうあるんです。

 輪廻転生─リンネテンショウといいます。一般には輪廻転生─リンネテンセイといっています。教読みではテンショウなんですね。

 曹洞宗を開かれた道元禅師のご著書も呉音で読みますから正法眼蔵』─ショウボウゲンゾウ。眼という字もゲンと読むんです。普通はガンですがゲン。普通の読み方ではセイホウガンゾウと読みたいとこですが教ではショウボウゲンゾウと読むんです。

 漢字の読み方にも呉音と漢音、唐音、宋音、色々あります。何かに触れて教の本あるいは経典を読む時に、佛教語は呉音で読むという伝統があるということがご理解いただければと思います。

 

 そろそろ本日の本題に入らせて頂きます。

 昨年秋成願寺観音奉賛会の皆様に共の玄照寺に参拝して頂きました。そのご縁で今回、ご当山の施食会法要にお招き頂きました。

 先日、成願寺の方丈さから法話の演題を決めて欲しいといわれ、「法に学ぶ」としました。


佛法と王法

 佛法の反対語は王法。王様の王に法。あるいは世法。具体的にいいますと法律、世間では共通のことです様の教えからすると違った共通認識、規則。そういうものを王法とか世法が表しているんです。

 解りやすくいいますと、佛法は私どもがこの世に生きている間に持っている欲を扱うものです。教では煩悩という言葉で表しています。欲というものは多かれ少なかれ皆持っています。欲はとかく私どもを迷わせるものなんです。

 これに対してお釈迦様は修行をしまして欲をいかに抑えるか、鎮めるかということを考えました。欲を鎮めることが安らかな心の安定に繋がるということを悟られたわけです。

 佛教あるいは信仰というのは人間の創った文化であります。神様も様も人間が創り出した文化であると話をしますと、うちの方では住職のことをおっしゃんというんですけど、「おっしゃん違う」っていうんです。人間は神様が創ったものだという人がいます。キリスト教やイスラム教などの一神教では神が人間を創ったと説きます。そういう宗教の信者からしますれば間違っているということなんでしょう。

 佛教からいいますと、絶対神や絶対のというのは認めてないわけです。この世から人間がいなくなったら神様も様もいられなくなる。人間がいて初めて神様、様が立ち現れ、信仰も必要になってくる。

 私ども教徒にとりますと教では一番は自分なんですね。自己、そして他己、他人です。自分と他人大事なわけで、自己を律することが他人の幸せに通じるんだということが道元禅師の教えでございます。


佛法の具体的な教え

 の佛は釈尊のことで法は真理、教えのことです。つまり、釈尊が説いた真理、教えの意味です。佛教と同じ意味ですが、佛教は釈尊の教え以外のものも含めて使われていますが、佛は釈尊の教えに限定して使うことが多いと思います。具体的な教えは、()(たい)八正道(はっしょうどう)三法印(さんぼういん)(四法印)などです。

 四諦の諦とは真理の意味で、四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦の四種の真理のことです。苦諦とは人生は苦であるという真理です。人生が苦であるということは、まぎれもない真理であるというのが佛法の立場です。具体的には四苦八苦のことです。四苦とは生・老・病・死の四つ、それに、(おん)(ぞう)()苦・愛別離苦・()()(とく)苦・()(おん)(じょう)苦の四つを合わせて八苦といいます。

 生苦(しょうく)とは生まれる苦しみです。佛では(りん)()そのものを苦と考えます。したがってこの世に生を()けることも苦となります。老苦は文字通り老いる苦しみです。人は老いる苦しみを避けて通ることはできません。病苦も文字通り病いに罹る苦しみです。そして死苦はこの世との別れであり最大の苦しみです。怨憎会苦は怨み憎む者と会わなければならない苦しみです。

 愛別離苦とは愛しい者と別れる苦しみです。求不得苦とは、求めても得られない苦しみです。つまり、何事も思い通りにならない苦しみです。()(おん)(じょう)苦の五(おん)とは色・受・想・行・識の五つの要素のことです。佛ではこの五(おん)が人間を構成していて、そこから諸々の苦悩が生じるというのです。

 次に集諦(じったい)とは、苦の原因は煩悩であるという真理です。煩悩とは欲のことであり、百八煩悩といわれるように人間には様々な欲望があります。

 その根元をなすものが無明(むみょう)であるというのです。無明は人生や事物の真相に明らかでないこと、さらにはすべては無常であり無我であるという事実に無知であることを言います。

 次の滅諦(めったい)とは、煩悩を滅した境地が涅槃の理想の境地であるという真理です。では、この涅槃の境地に至るにはどうしたらいいのかを具体的に説いたのが次の道諦です。

 道諦とは、涅槃に至る方法は八正道であるという真理です。八正道とは次の八つです。

 正見(しょうけん)─正しいものの見方

 正思惟(しょうしゆい)─正見にのっとった正しい思惟

 正語(しょうご)─正見にのっとった正しい言葉を語ること

 正業(しょうごう)─正見にのっとった正しい行為を行なうこと

 正命(しょうみょう)─正見にのっとった正しい生活を営むこと

 正精進(しょうしょうじん)─正見にのっとった正しい努力をすること

 正念(しょうねん)─正見にかなう正しい思念をすること

 正定(しょうじょう)─正見にのっとった正しい瞑想をすること

 以上の八正道を実践すれば、解脱することができるというのです。八つは別々の無関係のものではなく、一つの修行の八つの側面であるといえます。

 次に三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つをいいます。四法印の場合は、ここに一切皆苦を加えます。法印とは、佛法のスローガンであり佛法であるか否かを判断する基準となるものです。

 まず諸行無常とは、すべての存在は移り変わり、一瞬もとどまることなく変化していることを言うものです。次の諸法無我は、いかなる存在も不変の本質を有しないということです。そして涅槃寂静は、悟りの境地(涅槃)は静かな安らぎであるというのです。さらに一切皆苦は、迷いの世界にあることは苦そのものであるということです。

 以上、四諦、八正道、三法印(四法印)について述べましたが、佛法の基本的な内容と言えるかと思います。

 ところで、道元禅師は主著である『正法眼蔵』の中で頻繁に佛法について述べています。弁道話の巻には、

「いはく、佛法を住持せし諸祖ならびに諸佛、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり」

とあり、さらには、

「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の佛法は、最上のなかに最上なり、参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺(しゅさん)看経(かんきん)をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」

とあります。道元禅師は、正伝の佛法はただひたすらに坐る()(かん)()()の坐禅によってしか体得することはできないと説いています。

 八正道との関係で言えば、最後の正定に(ぎょう)収斂(しゅうれん)したと言うことができるでしょう。

 明治時代に編纂された『修證義』にも佛法という言葉は出ていますが、正伝の佛法は坐禅であるという説示はありません。坐禅を抜きにして道元禅師の教えの真髄に迫ることは不可能です。

 成願寺さまでも定例の坐禅会が開催されているとお聞きしますが、坐禅会に参加できない方も自宅でたとえ五分でも十分でも足を組み、体を整え心を落ち着けて坐禅に親しみ、道元禅師さらには釈尊の佛法に思いを馳せて頂ければありがたいです。

 ご清聴ありがとうございました。      合掌