大本山總持寺祖院拝登の旅 説教

 −「思い」から離るる妙法−

總持寺祖院単頭兼維那・七尾市長齢寺住職 大橋紀宏

 

 本日は遠いところをご参拝いただきましてありがとうございます。少しお時間を頂戴しましてお話をさせていただきます。このお寺は、永平寺と並ぶ曹洞宗の本山として、明治31年まで五百七十余年の歴史がございました。しかし、明治314月、不幸にして火災に遭い、多くの伽藍を焼失。時の禅師さまの大英断によって現在の横浜市鶴見に本山の移転となったわけです。ここは祖院として復興し、火災から百年ほどの時が過ぎたわけでございます。百年の風雪に耐えた伽藍はご覧いただきましたように立派なものも多く、平成19331日付けで登録文化財の申請をすべく、神奈川大学の協力のもと調査をすすめ準備を整えておりました。そんな矢先、みなさんご承知の能登半島地震に遭い、甚大な被害を受けた。申請のほんの五日前のことです。

 あまりの被害の大きさに、これは文化財の登録は難しいかなと諦めておりました。ところが、8月に文化庁の調査官が来山し、建物、山門、回廊と我々が考えていた以上のものが登録されました。しかし、登録文化財になりましたら、建て替えるということができない。地震の傷跡を多く残したままでの登録です。危険でもございますから、まずは修理をすることになったわけです。

 はじめに文化庁の外郭団体・文化財建造物保存協会に修繕の見積りをお願いしたんです。建物だけではなく、境内の石の崩れたところなども含めてお願いしましたら、なんと50億円の見積りが出てきました。「雲水がたった145人しかいないのに、そんなにかかるなら直さなくていい」。こう言う人もいました。ですが、本山は鶴見に移ったとはいえ、瑩山禅師さまが布教の志に燃え、実際に過ごされたお寺です。我慢するところは我慢して、やはり修理しようということになった。例えばそこに色が付いている柱があります。その際(きわ)が少しずれていますね。これを塗り直すと1億円ほどかかるそうです。ですからそういう贅沢はせず、どうしても必要なところにだけに手を入れていただくことにした。それでも、本堂だけでも10数億円というお金がかかります。なぜかと申しますと、建物全体を覆う大屋根をかけてまず屋根を降ろし、壁を降ろして、柱を持ち上げ基礎を直す。そして基礎を直したところに修繕した部材を戻し、壁を塗り直してまた屋根をかける。京都の東本願寺さまで親鸞聖人の御遠忌に向けて大工事を進めておられますが、同じように明治に再建された建物の修復だそうです。こちらの祖院もいざ工事がはじまりますと、早くても5年の歳月がかかるそうでございす。

 

 観音さまのお力で、もともと清浄な私たち

 では、そうして大勢の人の手をかけお金をかけて伽藍を整えれば、だまっていてもみなさんを導き、救うようなお寺になるのでしょうか。

 昔、中国に薬山禅師という偉いお坊さんがいました。この方のお寺は修行がとても厳しくて雲水がいつも七、八人しかいません。でも大叢林(だいそうりん)だというんです。なぜそういえたのか。修行している中身が素晴らしいから大叢林といわれたんですね。我々もいまはたった14人。永平寺や鶴見の總持寺から比べれば本当に小さい。でもそうしたなかで、お詣りくださるみなさんにどういうことをお伝えすればいいのか、少しでもお話しできたらと思います。

 私は雲水時代から数えますと30年近くこの祖院におります。最初のころは陰で坐禅をしたり、あるいは自分だけごみ拾いをしたり、草取りをしたりと、我慢をして徳を積めば、何か救われる道ができるのではないかと思っていたんです。勤めたぶんだけ偉くなれるとか、いいことがあるように思い込んでいた。しかし頭の中でそんな事を思いながらやりますとやっていない人を攻撃したくなるんですね。みなさんにも同じような経験はございませんか。勤めた自分がやっていない人より偉いように思い違いをするんですね。

 それから、観音さまはどこにいるのかな、と考えました。みなさんはおわかりになりますか。そう、自分自身。みなさん自身が観音さま。観音経に「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」と唱えれば救われるとございます。これは実は「思い」を捨てるということを言っているのです。自分自身、「観音さまの力をいつもお借りしている」と感じながら生きていくことのできる方は救われるのです。

 どういうことかと申しますと「どっこいしょ」、歳をだんだんとりますと自然に出てくる言葉だと思います。この言葉の由来は、昔から人々は霊山や富士山に登るときに白い経帷子(きょうかたびら)を着て「六根清浄(ろっこんしょうじょう)、六根清浄」と唱えて登ったんです。それが訛って「どっこいしょ」。では六根とは何でしょう。私たちの眼、耳、鼻、舌、身、五つの感覚器官。それから意、意識のことです。この六根が清浄だというんです。だけどもみなさんは、自分はどんなにお経を唱えてもあるいは坐禅をしても煩悩がなくなりませんとよくいわれます。

 そこでまず眼を考えてみましましょう。今みなさんは私の顔を見ていますね。では右を見て下さい。パッとあちらを見る。いま眼に映っているものは、こちらの私の顔はきれいさっぱりなくなって、パッと向こうの様子ですね。では上を見て下さいと言ったら、今度は天上の様子が映る。こうして眼は人間の「思い」のように残像を残すことはありません。これが肝心なのです。眼は清浄でありますから、今映っているものだけで100パーセント。嘘偽りがまったくない。でも人生には「まさか」と口をついて出てくることがあります。でもあれは「まさか」という「思い」があるだけ、そこに「まさか」というものはないのです。

 あの人は嫌いだから見たくないといっても見えるんです。では、あの人は嫌いといってるのは誰なのかといえば、眼じゃないですよ。私たちの「思い」です。嫌いな相手には良いも悪いも書いてないのです。こうした「思い」が実は私たちを苦しめているのです。

 この耳も同じこと。清浄なのです。

 蝉の声が聞こえます。蝉の声に「うるさい」と書いてありません。ただ、ミーン、ミーンと鳴いています。それなのに都会からキャンプ場に来る方のなかには、「蝉の声がうるさい」と係りにクレームを言いに来る人がいるそうです。都会の方には田舎の蝉の声がやたらとうるさく聞こえるそうなんです。

 この祖院では朝のおつとめを薄暗いころからはじめます。1匹の蝉が鳴き出しますと、こちらがお経中であろうと坐禅中であろうとお構いなし。一斉に鳴きだします。それまでは本当に静かなんですよ。おそらくキャンプ場で、今日はゆっくり7時ぐらいまでは寝ていたいと思っているところに、5時ぐらいからミンミン、ミンミン鳴かれますとうるさくてしょうがない。許せなくなるんでしょうね。

 今日はたまたま工事の音が聞こえませんが、能登の田舎のお寺に来たのに重機の音がしていたら「何だか良くなかった」と言われる方があるかもしれない。でもそこにはそういう「思い」があるだけ。

 鼻もそうです。お寺に来たらお線香の香りがします。「良い香りだな」というのも「思い」。今度はお手洗いに行ったら「嫌なにおいがするな」というのも「思い」。そこにある空気に「良い」も「嫌」も書いてありませんね。

 余談ですが、法事のときにお焼香するのはなぜかご存じですか。お香には心を鎮静化させる作用があります。東洋のお香は心を静かにしてくれます。ちなみに西洋のお香は発奮させるそうです。我々はご法事のときにお焼香をすることによって自分自身を落ち着かせているんです。私たち自身が迷いから解き放たれなければ、ご先祖さまも供養されないということですね。

 舌も同じ。私はみなさんが今夜お泊まりになる和倉温泉の近くに自坊がございます。ほとんど祖院におりますが用事ができると帰るわけです。自坊では用事の合間をぬって掃除や草刈りもいたします。ですからひじょうに忙しい。さらにその合間を縫って食事をいただくわけですが、家内が整えてくれるお膳は家族の体を思って薄味なんです。それが頭の中でわかっているんです。わかっているところに、忙しいものですから、口に入れる前から醤油をざっとかけるんです。それが家内の目にとまりますと「食べる前から醤油かけるとはどういうことですか。食べてみて味が薄ければ醤油をかければいいではないですか」と怒られる。まだ食べる前で味を確かめていないのに「味が足りない」という思いにとらわれているわけです。

 みなさんも誰かがいれてくれたお茶の色を見ただけで、「これは薄いな」と思っていませんか。

 身ということ、肌に触れるということを考えましても同じなわけです。なにか気持ちの悪いものが触れても、さっと離れればもとの清浄な身があるだけですね。

 最後の意、意識ということですが、この清浄な五感を通じていつも100パーセントの事実だけのこの体で、いったい何を迷う必要があるのかというのです。

 蝉の音は、捉え方によっては山寺に来た感じがするし、夏の風情があります。昨日まではすごく蒸し暑かったのですが、今日は秋風が吹くような涼しさを感じるかもしれません。相手が自然ならば「思い」に執着せずにいられるのかもしれませんが、ですが人の言葉だと許せない。だれかが「バカヤロウ」と言ったとします。でもいい終わればここにはなにも無いでしょう? なのに耳に付いて、あの人のことが許せないという。

 それが、「もういいや」「もう許してやろう」と言うことがございます。年月が過ぎるとそういう自分の「思い」の執着を離すことができるんです。そして「もういいや」となる。この体は執着などしないでとっくに離しているんです。「バカヤロウ」と言われても、次の瞬間にきれいさっぱり無いんです。それなのに、私たち自身が大事に頭の中で「思い」執着しているわけです。

 タライの中に泥水があります。その泥水をいつまでも掻き混ぜていたらどうですか。いつまででもドロドロとして濁っています。でも掻き混ぜるのを止めてしまえば、泥は下に沈み水は澄んでくる。私たちも心の泥に手をつけないで、もういいと執着せずにおけば、ちゃんと収まるんです。私たちは、自分の頭の中に作り出す「思い」を追いかけて苦労していたと気がつくことが大切かなと思うわけでございます。

 将来のことをどれだけ真剣に考えたところで今はどうすることもできません。また過去に戻ることもできない。今しかないんです。人の一生は、今やれることを一生懸命やるだけなんですね。

 それでもなにか腹が立ち、その「思い」からどうしても離れられないことがありましたなら、成願寺の観音さまにお詣りして、「南無観世音」と「観音経」をお唱えください。お唱えしている間に腹を立てていたことを忘れ、お経に心が満たされていることに気づいたならば、観音さまはいつでも自分の側にいます。自分自身の中にいてくださることが、おわかりいただけると思うのです。       合掌