平成22年 盂蘭盆会 説教

 「行いの尊さ」

           滋賀県 東円寺 住職 藤木道明

 

 みなさん、こんにちは。成願寺様と私のおつきあいはずいぶん長く、もう四十年余りになります。若いころはこちらに寄宿して、先代の方丈様にずいぶんかわいがっていただきました。また毎年のお盆供養のおつとめや絵馬の干支の絵を長年描かせていただいております。先般現方丈が焼香師をされた小田原道了尊の大遠忌にも随喜しておりますから、お見知りおきくださる方もいらっしゃるかと思います。

 きょうはお盆、ご先祖さまの供養の日ですが、宗教行事というのは、実は漠としたところがありまして、仏教行事も、深い意味までご存じの方は少ないのではないかと思います。お盆のことも、「昔からやっていることだから、今年もやらなかったら罰(ばち)が当たる」などと思われている方がなかにはいらっしゃる。

 お盆とは、「ご先祖さまが帰って来られる日」というわけで、帰って来るというからには普段はどこかへいらっしゃるわけですよね。こうしたことは仏教的、伝統的な定説でありますが、最近は、死んだらそれで終わりと考える方も多いようです。そういう方の多くは「自分は信仰をもっていません」なんておっしゃって、あの世なんてあるわけないと思っている。でも普段そう思っている方でも、お盆になるとお寺詣りをして、お墓詣りをする。

 そういう意味では、日本人の宗教心というのはいいかげんなんですね。死んだらそれっきりなのであれば、お寺詣りもお墓詣りも必要ないのではないかと思うのですが、「信仰をもっていません」と言いながら、初詣にも行って、クリスマスまでも祝ってしまう。それが日本人なんですね。

 そこで本日は仏教の大前提からお話ししたいと思います。仏教の教えというのは三世(過去世、現在世、未来世)を貫いているということなんです。三世を貫くとはどういうことかと申しますと、仏教の教えには「壁」というものがないのです。過去も今も未来も飛び越えている。また、私・あなた、あの世・この世などの隔たりが一切ないというんです。全てに通用する教えなんですね。

 そうしますと、現在世、つまり、現世のことだけが「全て」だと思っている人にはなかなかわかりづらい。たとえば新興宗教には、現世のことだけを説く宗教があります。そのほうがわかりやすいわけです。こういうことをしたら「お金が儲かりますよ」「病気が治りますよ」と言われたら、みなさんわかりやすいでしょう。

 しかし、その教えだけでは、死んだらいったいどうなるのでしょう。もしも大切な人を亡くしてしまったら、いったいどうしたらいいのでしょうね。

 仏教の教えは、いまのこの世はもちろん、あの世へ行こうが、どの世へ行こうが通用する。通用しなければ、それは宗教とはいえないのです。宗教の「宗」というのは大事なものという意味、人間の大切なもの。その教えが宗教なのです。

 

 子孫を守る先祖の存在

 お盆に帰って来るといわれているご先祖さまのことをお話ししたいと思いますが、帰って来るというなら普段はどこへ行っておられるのでしょう。これは普通にいえば、あの世ということになります。

 仏教の教えでは、人が亡くなったらすぐに先祖になるということはなくて、四十九日を迎えると、白い位牌から黒い塗りの位牌にかえて、仏壇にお祀りします。そしてみなさんに拝んでいただく存在となる。この、我が家の仏壇に入る方が先祖というわけです。四十九日を迎えるまでには、初七日、二(ふた)七日、三()七日と供養を重ねます。そうして供養を重ねることで、はじめて仏壇に入る資格ができるわけです。

 そう考えますと、先祖というのは、なにもしなくても自然とできるものではなくて、我々が供養をして育てるものだということがおわかりいただけるかと思います。こころを込めて供養をすれば、立派な先祖になる。いいかげんな供養をしていたら、あまり立派じゃない先祖になる。

 では、立派な先祖になっていただくと、なにをしてくださる存在となるのでしょう。仏壇にただ座っているだけではないのです。子孫を護ってくださる存在。これが先祖なんです。

 でも「私の家は法事もきちんとしているし、お寺にお布施もたくさん包んでいる。なのにちっともよくならない」という人がいます。また、「あそこの家は法事もしないし、先祖や仏さまを大事にもしていない。なのにだんだん金持ちになって贅沢な暮らしをしている」ということもあるでしょう。しかし、これはちょっと取り違いをしているのです。

 「先祖は子孫を護ってくださる存在だ」と申しましたが、子孫の社会生活を守るとはいっていないわけです。

 私たちは、社会生活のまえに、まずは人間としての生活、こころの生活がある。そのうえで社会生活ができているということです。しかし現代は、社会生活のことばかりに気を取られている人が多いんですね。仕事ばっかり、勉強ばっかりでこころのことを顧みない人は、いずれどこかでつまずいてしまう。

 仏壇の前できちっと手をあわせて供養をすれば、人間としての私を護ってくださる。お金が儲かるとか、社会的地位が高くなるとか、そんなことではないわけです。

 しかし、まったく関係がないとは思いません。人間ができてくれば、それは社会生活の中にも反映されて、自然とまわりから尊敬される人になるのではないかと思うからです。仏教とは、人間性を養う、こころを成長させる道なのです。

 

 巡り巡って、仏さまから返ってくるもの

 法要などでお経をあげますと、最後に「願わくは……」といって回向をいたします。これは、仏さまに向けたお唱えごとなわけですが、巡り巡って私たちに返ってきます。仏さまは、アンテナのような役割をお持ちだとよく思うのですが、供養のまごころを向けると、それをキャッチして返してくださる。

 仏さまは人間のように執着や欲というものがないわけですから、己の思いにとらわれることがありません。常に正しい存在なわけです。その正しい仏さまに供養のまごころを向ければ、キャッチをして返してくださるものは正しいものなのです。ちょうど鏡みたいなものですね。ですから私たちは、まごころを向ける対象を間違えるとたいへんなことになります。間違った鏡にいくらまごころをぶつけても、間違ったものしか返ってこないわけです。

 私はご法事がありますと、お経をお読みします。そして仏さまに回向をする。そうしますと仏さまはちゃんと訳してくださるんですね。ただし金持ちになりたいなどという願いはなかなか返って来ません。こうした願いは人間性には役に立たないもの。人間として成長する願いならば、必ず訳して返してくださる。これは頭ではなくて、からだで感じて受け取ったらいいわけです。

 ところで、ほとんどの宗教は幸せということを願っているわけですけども、では、なぜ不幸ということがあるのでしょう。

 幸せということを、感情の問題だと思っている人が多いのですが、一時の興奮の状態、恍惚の状態とは違うんですよ。風呂に入って気持ちがいいとか、酒を飲んでうまいとか、そういうものではない。幸せというのは、人間が人間らしくあった時、これを幸せというのです。

 では不幸とはなにかと考えますと、なにかが間違っているから、不幸になるというんですね。私たちはなかなか間違いを認められないわけですが、しかし間違いは必ずあります。だから苦しみ、悩みがある。

 こころにひっかかるものがなければ、本来は正しい。でも物事を判断するときに、こころに少しでも執着があれば、その思いにとらわれて、間違ってしまう。間違いは不幸のもとなのです。

 『修証義』に「修行をすればみな仏になれる」というようなことが書いてあります。しかし、こう考えてみてください。みんなは仏さまであるのに、その仏さまが間違ってしまっていると。私たちはもともと仏さまなんですね。仏さまで幸せになるはずなんですね。しかし、間違いを犯しているから不幸になっている。ならばその間違いに早く気がつかなければならないというわけです。

 では間違いとは、いったいなんなのかと申しますと、社会生活が中心になってしまっているということです。実生活である社会生活が自分の全てだと勘違いをしてしまっている。

 お寺にお出でになりましたら、ちょっと意識を変えてほしいのです。お寺の入り口には門があります。門というのは一つの通せんぼです。あそこで世間のものをみんな置いて、それからお入りになってください。門の外では社長かもしれない、有名人かもしれない。でもそんなものはみんな門で置いて来る。お寺というところは、門の外と価値観が違うところなのです。社会生活とまったく違う世界がお寺であり、仏さまの教えです。

 山門で社会生活を脱いで素裸になった自分という人間を顧みる。仏さまに向かって手を合わせて、仏さまが返してくださるものを感じ取る。これが間違いに気づくために重要なことではないかと思うわけでございます。

 

 施しつくす、ということ

 最初に、ご先祖様は普段どこへいらっしゃるのだろうかという話をしましたが、現世とは違った世界へいらっしゃるということですね。「死んだら終わり。先祖供養なんて必要ない」と思う方もいるとは思いますが、でも考えてみますと先祖と私たちはつながっています。どんな人にも先祖がいるわけで、ぽっと急に人間として現れたという方はいないわけですね。

 みなさん五十を過ぎると必ずと言っていいほどお父さんかお母さんに似てきます。私も「親父さんとそっくりになってきたな」とよく檀家さんに言われまして、若い時はもう少し男前だったのになと思っても、だんだん自分の顔じゃなくなって、親父の顔になってくる。そして、親と同じようなことをしている自分にはっと気がつく時がある。話し方であったり、ちょっとした動作のくせであったり、親と子は一緒なんですね。

 若い人は何のために生きているのかと、思い悩んで自分探しの旅に出たりしますが、みんな何かの使命を持って産まれてきたわけです。使命というのは全てを果たすものであります。人生を足し算だと思っている人がいるかもしれませんが、人生は引き算なんです。どんどん使命を果たして、消していってそして最後はなくなってしまえばいいわけです。

 先代の方丈さんは「無用の用」ということばがお好きで、本堂の前の像にもこの語が刻んでありますが、これは、「いまあるものは、消化するためにある」という意味です。だんだん減らしていって、最後はなくしてしまえばいい。 

 『修証義』に、「生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とあります。生から死までの一生、自分の一生は何のためにあるか。それを明らめるのが仏教だという。そして「生死即(すなわ)ち涅()(はん)」とある。涅槃ということは、全部終わらすということです。人としての役目、使命を全部終わらせたという状態が涅槃なのです。

 私たちは、臨終に接すると命が終わったと思う。でもこれは、実はからだの機能が終わったということなんです。使命を全て果たして終わらせることができたかといえば、そうじゃない。使命を全て果たしてあの世へ行くという人はほとんどいないのです。お釈迦さまも、前世は人間、そして動物にも生まれ、善行を重ねておられます。そうしますと、お釈迦さまですらそうなのですから、われわれは子孫や次世代の子どもたちに使命の消化を繋げていくということなのです。

 いまはエコだとかリサイクルだとかいって、たとえば一つの茶わんがあったとしますと、水を飲んで飲んで飲んで、使って使って使って、使い切って捨てた。でもこれをまたリサイクルして、ガラスに戻してもう一度使うということをします。人間も同じです。もう一度生まれ変わる。それが子孫や次世代の子どもたちだと考えていったらいいわけです。

 ではなかなか果たしきれない使命とは、いったいなんなのかということになります。使命の「使」というのは使うということですから、人のために役に立つ、使われるということ。「施」ということにも通じますね。施(ほどこ)すということ。

 そうしますと、施すものが自分になくては施しようがないですね。自分のものとして取り込んだものを施していく。でも「自分のことだけでせいいっぱいで、人に施すなんてなかなか」という方もあるでしょう。だけど施すということは品物やお金じゃなくてもいいんですよ。お経のなかに眼(がん)()という言葉が出てきます。眼施とは慈愛に満ちたまなざしというんです。つまりは笑顔でいればいいんです。無財七施という教えにございまして、親切でもいい、言葉でもいいんですね。施すものはいっぱいあるわけです。

 しかしそれでも、自分にないものは施せない。ですから、私たちは蓄えをしなくちゃならないということです。お金でも蓄えるのはいいわけです。蓄えて、蓄えて、蓄えて、好きなだけ蓄えたらいい。そして施して、使い果たしてしまうということなのです。

 そうしますと、年を取ることも、死ぬということも、それほど怖くはないということになってきます。しかし人生というのは不思議なもので、長くなればなるほど、執着が多くなるんですね。執着があれば目が曇ります。けれども、その執着するこころも使い果たしていかなければいけない。そしてはじめて、本物になるわけです。

 

 仏教徒としての幸せな生活

 執着の無い人を仏さまといい、執着を離れた先祖を仏さまになったといいます。これは「正しい判断のできる人」という意味になります。そして執着でいっぱいの私たちに「自分が自分として在るためには、執着にだまされるな、正しい道はこちらだよ」と教えて下さるのが仏さま、先祖さまです。

 「正しさ」とは「それがそれである」ことで、人が人であり、私が私であることです。

 「私として在る」、人間として是(これ)に勝る幸せはありません。

 私たちは、仏さまの前、ご自宅の仏壇の前で一生懸命拝むときに、正しいものに対してなにかを問いかけていると思ったらいいんですね。そうすると向こうから、それは正しいですよとか、正しくないですよとか、必ず正しい答えがくる。それが信仰というものなんです。

 日本には仏壇というすばらしい文化があります。これは家の中に私たちを導いてくださる正しさのもとがあるということです。自分が迷った時とか、苦しい時に、仏壇の前に坐ればいいということです。嬉しい時や感謝の気持ちを捧げる時にも坐ればいい。そうすると正しいものが返って来る。これは理屈ではなくて、からだに感じるのです。

 よく「うちは分家だから、まだ仏壇はいらないんだ」という人もいます。しかし、仏壇は持つべきなんですね。仏壇の前に坐るとわたしの目の前に間違いのない世界がある、そう感じたらいいわけです。

 間違いの多い世界にいる私たちです。でも間違いのない存在が家の中にある。そこに気がついてもらえばいいわけです。そしてそこから発するものを受けとめて生きていくということが仏教の生活となって、それがすなわち幸せということになるのではないかと思うわけでございます。

 お盆やお彼岸だけではなくて、普段からご自宅の仏壇、お寺の本尊さま、道端のお地蔵さまにも手をあわせて、ふっと世間から離れる。そうしますとまた違ったところから人生を見つめていけるのではないかなと思っております。

 本日はありがとうございました。    合掌