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物語・成願寺と新選組             赤間 倭子


 昭和の初めに、子母沢寛によって「新選組始末記」「新選組遺聞」(昭和四年刊)「新選組物語」などが著されました。
 これは、当時、東京日日新聞社社会部の記者をしていた彼が、新聞記者の眼と耳と足を駆使して、

 そのころまだ生存していた新選組隊士や、関係者を丹念にたずね歩き、聞書をとったり、調査したものをドキュメンタリータッチで書いた作品です。
 新選組の研究家は必ずこの作品をもとにして、ここから独自な研究調査を進めております。
「新選組遺聞」の中に新選組局長近藤勇の甥で、のちに勇の一人娘瓊子の婿になる宮川勇五郎の遺談が、たくさん記載されています。
 その中に、中野村本郷成願寺の名が出ております。それによると、
「勇の家族、つまり私にとりまして母(姑)に当たるつねと、後に私の妻となりました瓊子は勇が甲州へ出発して間もなく、牛込の二十騎町の家を引き払って、江戸郊外中野村本郷の成願寺という寺の座敷を借りて住んでいました。私もたいていはこの寺に一緒に暮らし、沖田総司もしばらくは居たこともあります。大きな寺で、勇の門人で江戸の与力だった福田平馬という人が世話してくれたものです」とあります。
 どうしてこの家族が成願寺に移住してきたかというと、天然理心流試衛館道場主だった近藤勇が、道場をたたんで、門人・有志を引き連れて上洛し、後の新選組をつくったのですが、
「その留守を守るには、道場のある家は広すぎました。そこで、二十騎町の小さな家を求めておつね母子は住んでいたのですが、これは三間くらいの手狭なものでした。いずれ勇が京都から戻ったら大きな邸へ移るつもりでいたので、あくまでも仮の住まいといったところでした。牛込から中野の成願寺に移ると決まったら、福田平馬が『二十騎町のあの家を拙者にくれ』というので、平馬にやりました」
とあります。
 家が狭いので一時的に住居を成願寺に移したのは本当だと思いますが、私が考えるには、慶応四年初め当時の江戸は徳川幕府崩壊寸前で、薩長土の討幕軍が、いつ侵入してきても不思議でない不安な情況にありました。
 したがって、江戸市内に佐幕派の新選組局長の妻子をおくよりも、郊外の林と畑に囲まれた中野村の成願寺に移したほうが、はるかに安全であるという配慮で、福田平馬や寺尾安次郎(田安家家臣・試衛館道場門人)が移転をすすめたものと考えられます。
 福田平馬がどういうつてで成願寺を世話したかについては、なんの資料も話も残っておりません。ただ、想像できるのは、彼の菩提寺がこの成願寺ではないかということでした。
 しかし、過去帖を調べても福田平馬の名前はありませんでした。ただし、信徒の方々のなかに「福田一族」といって、福田姓があるので、その代表的な福田文衛氏に問い合わせましたが、平馬の関係者ではありませんでした。
 そうなると、当時の檀家総代の人とか、寺側の有力者との縁からなのか、あるいは、成願寺の檀家の農民が、江戸の福田平馬家の下肥を汲みにきていたりして、その縁で成願寺を選んだのかもしれません。
 下肥は農家にとっては、大切な宝のようなもので、江戸近在の彼等は、市中の旗本や御家人の家へ、下肥をもらいにゆき、その謝礼に四季の農作物をとどけるのが習慣でしたので、なかなか親密な関係でした。
 また考えられるのは、この成願寺の名をおつねや平馬が「嘉陵紀行」によって、ある程度知っていたのではないかということです。「嘉陵紀行」とは、村尾嘉陵によって書かれた紀行文20巻で、文政元年8月26日付で「成子成願寺・熊野十二社紀行」として成願寺について詳しく誌されています。著者村尾嘉陵は、「名を正靖といい、通称源右衛門といって、清水家家臣でお屋敷用人を勤め遊行を好み、暇さえあれば杖を郊外にひく。その探訪を誌したもの五篇あり、名付けて、嘉陵紀行という。正靖、宝暦10年に生まれ、天保12年5月29日沒す。82歳」とあります。(森銑三著作集、第9巻)。
 ここで、村尾嘉陵が清水家家臣であることと、近藤勇の妻つねが、同じ清水家家臣松井八十五郎の長女であることを考え合わせると、多少のズレはあっても、嘉陵によって彼女は成願寺の名ぐらいはよく知っていたかもしれません。
 移転の際の実務的な作業や、交渉は表立って福田平馬が指図したのでしょうが、案外、清水家家臣という共通な部分で、村尾家という伏線が成願寺を選ばせたのかもしれません。


近藤 勇

 近藤勇といえば、幕末動乱の世に「新選組局長」として活躍し、現在でも映画やテレビで有名です。彼は、天保五年十月九日、武州多摩郡上石原村(現東京都調布市)で、豪農宮川久次郎の三男として生まれ、十六歳のおりに天然理心流宗家近藤周助の養子となりました。文久元年8月、天然理心流四代目を襲名しました。
 おつねとの結婚は、万延元年3月で、文久2年に瓊子が生まれました。
 ちょうどその頃、幕府の政策の一つとして、動乱に明け暮れる京都の治安警備と、将軍徳川家茂の上洛警衛の先ばらいを兼ねて、全国の浪士の募集がありました。
 文久3年春、近藤勇は門人をひきいてこれに参加、上洛後、新選組をつくったのです。新選組は京都守護職松平容保の直下の一部隊として、過激派尊王論者の非合法破壊活動防止と、取り締りが主な任務でした。
 新選組が有名になったのは、元治元年の「池田屋騒動」がきっかけでした。
 この事件のために、明治維新は一年遅れたといわれ、長州を主とする尊王派から、新選組は憎悪と怨みを買ってゆきました。
 結成当時は無名な浪士集団にすぎなかった新選組は、ついに、幹部は旗本にまで出世し、平隊士も豪気な生活ができるまでになりましたが、やがて、徳川慶喜は大政奉還をし、恭順することを決定いたしました。
 ですが、あくまでも武力戦で徹底的に幕府を破滅させたい薩長土軍は、偽勅をもって、会津藩主松平容保らをはじめとして、新選組・佐幕派諸藩への追討を開始させました。
 鳥羽伏見戦(慶応4年1月)で敗れ、江戸へ引き上げた新選組は、3月に兵を再編成し、「甲陽鎮撫隊」と改名、甲府へ向かいました。
 おそらく、この頃には、近藤勇の妻子は成願寺に移り住んだと考えられます。
 甲州戦で惨敗した鎮撫隊は八王子を経て江戸へ戻り、さらに五兵衛新田(綾瀬)流山(千葉)へこもりました。
 ここで突然官軍の包囲を受け、近藤勇は武運つたなく降伏したのでした。
 やがて、彼は春日部から板橋に送られ、脇本陣の豊田家に幽閉されました。
 近藤が流山で捕らえられたのち、4月4日に副長土方歳三は、官軍がうようよする江戸に入り込み、勝海舟にこの件を報告しています。(勝海舟日記 19巻)。
 のち、残兵を率いた土方は、宇都宮から会津、仙台を経て北海道へと戦い続け、明治2年春、五稜郭で戦死、戊辰戦の最後を飾りました。
 一方、板橋に幽閉された近藤勇の助命救出は、新選組とたいへん関係の深かった勝海舟に対して、福田平馬が依頼にいっています。
 慶応4年4月14日付の海舟日記に、
 「大久保大和(勇の変名)門人福田平馬来る。大和の事頼み置く由」
 の記載があり、同じ幕臣という対等の資格で平馬が海舟を訪れたことがわかります。
 与力という身分からいえば平馬はおそらく御家人クラスの武士と考えてよいと思うのですが、彼についての調査は困難となっております。はっきりいえるのは、彼は神奈川奉行所の定役であることです。
 定役の給与は、三拾俵二人扶持、その他に役雑費のようなものが三人扶持、ほか御役金二十両程度となっています。なお、福田家の紋所は五三桐です(横浜沿革史・黄金花・読史総覧)。
 彼の勤務期間は不明ですが、近藤勇五郎の言では、江戸の与力となっているので、多分邸は江戸にあったのでしょう。
 当時、江戸講武所に勤務していた小野田東市(天然理心流剣客)が万延元年頃に、神奈川奉行所の剣術師範として転任し、慶応四年、講武所剣術師範として再び江戸に勤務となっているので、あるいは平馬もそのグループとして行動していたのではないでしょうか。
 最盛期の新選組をさんざん利用しておきながら大政奉還の時点では、これを見捨てたと言われている勝海舟が、どの程度平馬の依頼を実行したのか明らかではありません。海舟の部下、松波権之丞の名で土佐の東山道軍の谷干城に対して、なんらかの形で働きかけたと考えられるのですが、結局は成功しませんでした。
 慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首、享年35歳でした。
 板橋で斬首された勇の首級は、平尾一里塚で晒された後、京へ送られ三条河原に晒されました。
 刑場に埋められた首のない遺体は勇の近親者の手によって、三日後の夜掘り出され、三鷹市大沢にある近藤勇の生家宮川家の菩提寺竜源寺に運ばれ、埋葬されました。
 いつの世にも歴史の表面や、定説には出てこない言い伝えや秘話がありますが、この近藤勇の遺体運搬に関しても興味深い話しがあります。
 近藤勇五郎の娘こんさんの夫君である峰岸徳太郎氏から直接私が聞いた話なのですが、板橋刑場から竜源寺へ、勇の遺体を運ぶ途中、いったん成願寺へ立ち寄ったというのです。
 その理由は、成願寺におつねと瓊子がいたからというばかりではなく、夜道恐ろしい刑場から遺体を納めた箱を荷物に見せかけて、駕篭で運んでくるその恐怖と疲労で、一同たいへんだったからというのです。
 それで、成願寺に立ち寄り、ここで一休みしたのだと徳太郎氏は説明しました。
 今までの通説をくつがえす、青天の霹靂とはこのことでしょう。しかし、この話は十分ありうることです。
 板橋刑場からどんな道を通って成願寺まで来たのか、一行の足取りはよくわかりません。いずれにしても人目を避けて間道から間道を、近道を選んで走ってきたのでしょう。
 徳太郎氏の話から想像すれば、成願寺にはこの時おつね母子がいて、勇の遺体の到着を待っていたものと考えられます。
 そうでなければ、成願寺へ立ち寄る必要は半減してしまいます。また、成願寺側の受け入れ態勢は、すでに福田平馬によって万全に調えられていたとみてよいかもしれません。
 成願寺へ辿り着いた一行は、おつねが差し出す浄め酒や、茶菓子の接待で、どんなにかホッとして、生き返った心地になったでしょう。むろん、近藤勇の霊も、東堂黄河源霊大和尚によって、手厚い供養を受けたことと思われます。
 一息いれた一行は、また夜陰を黙々とひた走ったのです。
 ここからの行程は、おそらく成願寺から青梅街道へ出て、現在の地下鉄新高円寺駅付近を左折して五日市街道に入り、間道(当時は畑道)伝いに南進して甲州街道へ出たか、あるいは、五日市街道を西に進み、高井戸宿の手前で人見街道に入り、大沢へ出たのかもしれません。
 宮川家子孫の人の話しや、私の祖母などの話しによれば、大沢辺から東京へ出るときは、甲州街道はうるさいので五日市街道をよく使ったと言っています。つまり、この逆コースなわけです。人目をしのぶ行動であれば、甲州街道は避けたかもしれません。
 おつね母子らは、この一行に加わったか、または一足早く成願寺を出発したものか、どちらにしても大沢の竜源寺へ急いだものかと考えられます。
 おつね母子が、いつ成願寺から上石原の宮川家へ身をよせたかはっきりしませんが、勇の死後すぐとは考えられません。戌辰戦の余波がいくらか治まるまで、しばらく成願寺に留まっていたものとみるべきでしょう。なぜならば、新選組が甲州戦で敗れてからの官軍の追及は厳しいものだったからです。
 そのため、新選組隊士の親類縁者は、みな人目につかぬ山中や、他国に、また人を頼って隠れざるを得なかったのです。
 宮川家でも裏山の林にひそんだり、よそへ逃げたりしたといいますから、中野村の成願寺は、おつね母子にとって、まったく安全性の高い隠れ家だったに相違ありません。
 

沖田総司

 前記の勇五郎談の中に、沖田総司の名が出てきます。
 彼は白河藩浪人と名乗っていますが、もともとは武州多摩郡日野(現在の日野市)の千人同心井上家の分家の出で、何代か前に白河藩の沖田某の武家の株を譲り受けたようです。幼児から江戸の近藤道場に内弟子として入り、厳しい修業をつみましたが、天才的な腕の冴えを持ち、真剣に立ち合えば師匠の近藤勇でさえ敵わないのではないかとさえ噂されていました。
 背が高く、肩が張り上がっていて、青黒い顔をしていたと勇五郎は言っておりますが、
日野宿寄場名主佐藤彦五郎(新選組副長土方歳三の義兄であり、従兄)の子孫佐藤是氏によると「ヒラメのような顔をしていたそうだ」といいます。
 想像するに、目が細くてやや寄り目であったのでしょうか。映画やテレビではかならず総司の役は美男俳優がやりますが、その美貌とはほど遠い面差しのようです。ただ、いえることは、非常に明るくて、いつも冗談ばかり言っていた青年のようです。
 彼は近藤勇について京都へゆき、新選組一番隊長として活躍しましたが、池田屋騒動のときに、持病の肺結核が悪化し、戦闘中に喀血し、その後は隊内で療養していました。
 京都時代のエピソードに、こんな話が残っております。
 総司は、病気のためにある町医者のところに通っていたのですが、その医者の娘と愛し合うようになりました。しかし、よく理由はわからないのですが、局長近藤勇は二人の結婚を許さず、生木を割くように別れさせました。
 当時は上司命令は絶対のものですから、二人は泣く泣く別れました。いつも冗談ばかりいって、ふざけている総司がその娘のことになると、涙を見せたといわれています。そして、沖田総司子孫の家には、
「二人の間に女の子が生まれ、大阪辺の商家に貰われたが、いつか消息は絶えた」という伝承が残っています。
 この悲恋物語は、多くの作家によって小説に書かれ、若い女性たちの涙をさそっています。
 鳥羽伏見戦の敗走によって、新選組と共に江戸へ戻った沖田総司は、病気のために戦列を離れ、ひとり千駄ヶ谷の植甚という大きな植木屋の離れを借りて、療養していました。ときどきは姉のきんが看病にきていたりしましたが、特効薬のない当時、肺結核は死病でした。
 彼のもう一人の姉みつは、夫林太郎と共に庄内藩へ移住していて(林太郎は新徴組)、総司の身辺は淋しいものでした。
 江戸にはもう、錦ぎれをつけた官軍がうようよしていましたが、総司のいる植甚は、池尻橋という、当時非常に淋しいところで、川にかかる水車の音が響き、夜はほとんど人影もないような安全性の高い隠れ家でした。
 安全ではあっても、若い総司にとっては、淋しすぎたでしょう。彼はときどき、駕篭で一里程離れた成願寺にやってきました。そして、幾日も幾日も泊まり込んでいきました。不治の病魔にとりつかれ、死期が迫りつつあるのを彼自身一番良く知っていたでしょう。
 孤独感、寂寞感に絶えかねて、やってきてはおつね母子らの変わらぬ情の温もりに浸り、それによって、どんなに慰められたものか。
 また、ここにくることは、味方の情報をある程度知るチャンスでもあったでしょう。
「沖田がやってきて、血を吐きましてね」
 というおつねの言葉が、宮川家にいい伝えられています。
 短い一生を剣一筋に生きてきて、真っしぐらに青春を駆けぬけていったこの青年は、近藤勇の死に二か月おくれて、慶応4年5月30日、世を去りました。享年25歳(慶応4年は閏年で4月が二度ありました)。
 
 第二次世界大戦で焼失した成願寺も、現在では立派に再建され、竜宮城を思わせる美しい山門、整備された墓地、広い建造物は眼をみはるばかりです。
 今となってはもう、どの辺りにおつね母子が借りていた座敷があったのか、探すすべはありません。でも、この広い寺院の庭で、当時7歳だった瓊子は、きっと母親からこの成願寺にまつわる「中野長者」の伝説を聞かされて、小さな胸をふくらませたり、哀しませたりしたことでしょう。
 この母子のその後の人生は、あまり幸福とはいえませんでした。
 宮川勇五郎を婿に迎え、瓊子は近藤家をつぎましたが、25歳のときに、もともと病弱な彼女は一子久太郎(2歳位)を残して死にました(明治19年6月27日)。
 その6年後、賊軍の将の妻というレッテルを張られ、世をはばかり、一人娘の死を嘆き悲しみながら、おつねは明治25年7月21日、孤独と孤高の中で世を去りました。享年56歳。

 昔、成願寺は現在よりも広大な敷地を有し、寺内の山地に、二人静という小さな野草が咲いていたといいます。
 ひっそりと二つの穂花が一本の茎から出ているこの淋しげな花に、おつね母子の姿をダブらせて考えてみるとき、幸いうすきこの母子が、あの幕末動乱の世に、ここでしばしの安息を得たのかと思えば、感慨なくして成願寺の名を口にせずにはいられません。
                          (『成願寺誌』より抜粋)

参考文献

「新選組始末記」「新選組遺聞」「新選組物語」「嘉陵紀行」「横浜沿革史」「黄金花」「読史総覧」

「勝海舟全集十九巻」「武術天然理心流」上巻 小島政孝 「幕末の女(おつね)」赤間倭子



つけくわえる一文            成願寺 小林 貢人


 しばしばお問合せいただく新選組と成願寺の繋がりについて、当寺院には資料が全く現存しません。
 残念です。
 ほんの私見ですが、そのような徳川政権にかかわる記録は明治ご一新の時、焼捨てたのだと断じております。
 どの寺院も徳川政権の末端の役を担っていた江戸時代、この寺も関係深かったでしょう。
 ひと昔前、会津地誌を研究されてる方が見え、「甲府に赴任してた会津藩士が帰途病を得、成願寺で没してる。それを確認したい。」とのことです。過去帳、墓石にては何も得ることできませんでした。

しかし、この近辺に珍しい大名の寺‥‥蓮池鍋島家の菩提所でもあり、甲州街道青梅街道の旅行者に重宝な、半ば公認の寄留所として成願寺は利用されていた印の一つかと考えおります。
 勇の妻つねが身を寄せたのも自然の成りゆきなのでしょう。

 この寺は大正の大震災に堂宇大破損し、第二次世界大戦アメリカ軍空襲で文字通り灰燼に帰したのです。幸い本尊様とともに江戸時代の文書が少しばかり防空壕中で生き残りました。過去帳、本寺末寺関係書、書式見本、蓮池鍋島家記録などです。
 しかし徳川政権との関係は皆無です。
 8月15日敗戦の日より一週間以上、来る日も来る日も軍国的書籍、記録文書を焼きました。私の少年時代の強烈な記憶です。
 私の父が寺、関係者、集団疎開で預かっている小学生をアメリカ軍から守るため、日本軍隊に関係する証拠を一切消し去ろうと必死に努力したのです。父は参謀本部に徴用され情報収集に従事していたので、占領される恐ろしさへ人一倍神経を尖らしていたのだと思い起こします。

 佐幕の一派と知られ、成願寺もそう自覚してたから明治新政府の駐留時、それまでの書類を大量に処分したと推量するのです。ましてや新政府派に激しく対立した新選組に関しては文書、口伝すべて抹殺したのではないですか。
 昭和20年の経験から私は推量するのです。

 永いあいだ「ならずもの一家」あるいは「英雄群像」の評価に漂ってきた新選組です。流れに逆らった頑固さとむき出しの闘争心が嫌悪される一方、義に殉じはかなく散っていった姿が、なんともいえず人々の心情を引きつけるのでしょう。

 昭和63年『成願寺誌』上梓にあたり赤間倭子様が子母沢寛氏以来の調べをまとめ、新選組と成願寺の繋がりを一文にして下さいました。
 いま諸方のご要望に応え、抜萃再配布申し上げる次第です。      平成16年初夏

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